『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

織田勝長(おだかつなが)

2016-04-14 07:15:00 | 信長公記の蔵:人物篇
織田勝長(おだかつなが)

〔現代かなづかい〕おだかつなが

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


犬山のお坊・坊丸・津田源三郎・織田源三郎。

信長公記には「末子」とあるが第四子。

1560年武田信玄の元へ養子として送られる。

1581年11月武田勝頼は織田勝長を安土の信長

    の元へ返す。信長は勝長を犬山城主と

    する。

1582年2月信忠の信州攻めに参戦。

1582年3月諏訪湖のほとり大嶋に立てこもって

    いた安中は、上諏訪まで進出してきた

    織田信忠の軍を見て、降参の上織田勝長

    に城を渡す。

1582年3月織田信忠が織田勝長・団忠直・森長可

    を上野方面へおくると、小幡信真が人質を

    進上してくる。

1582年4月信州から安土へ帰陣途中の信長を、

    垂井に屋形をたて一献進上。

1582年6月本能寺の変で討ち死に。

 ※武田氏と織田氏をつなぐ重量な役割を果たした

  坊丸も本能寺の変で討ち死にしてしまいました。


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