久野宗能(くのむねよし)
〔現代仮名遣い〕くのむねよし
※下線部は信長公記以外の記事によります。
三郎左衛門。徳川家康の老臣。
1568年徳川家康が遠江攻略の時今川氏に
属して久野城を守っていたが、家康の臣
高力清長が、宗能が帰依している可睡斎
を通じ降参をすすめたのに従い家康に降伏
した。叔父宗益は今川氏真に誘われ、家康
を謀計にかけようと宗能を説得したが、
宗能は拒否。合戦に及んだが、家康の救援
によって宗能方は勝利を得ることができた。
1581年3月の高天神城攻めで首級1をあげる。
1590年徳川家康の関東入封のとき、下総
佐倉で一万三千石を与えられた。
1603年久野に復帰し八千五百石。
1609年死去。
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三郎左衛門。徳川家康の老臣。
1568年徳川家康が遠江攻略の時今川氏に
属して久野城を守っていたが、家康の臣
高力清長が、宗能が帰依している可睡斎
を通じ降参をすすめたのに従い家康に降伏
した。叔父宗益は今川氏真に誘われ、家康
を謀計にかけようと宗能を説得したが、
宗能は拒否。合戦に及んだが、家康の救援
によって宗能方は勝利を得ることができた。
1581年3月の高天神城攻めで首級1をあげる。
1590年徳川家康の関東入封のとき、下総
佐倉で一万三千石を与えられた。
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