『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

勧修寺晴豊(くゎんじゅじはれとよ)[2/2]

2017-02-06 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
勧修寺晴豊(くゎんじゅじはれとよ)[2/2]

〔現代仮名遣い〕かんじゅじゅはれとよ

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・

    矢木駿河守・平井越後を使いとして、

    勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    を同行させ、安土の信長にお礼を進上

    に参上する。信長方は、宮内卿法印・

    佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。

    一行は織田信忠にお礼を述べたが、

    信長は会わなかった。信長は門跡・

    北の方・下間頼竜・下間頼廉・下間

    仲之に黄金を与える注文を下し、使い

    の衆にも黄金を与える。

1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。

    勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田

    重保およびその下使い荒屋善左衛門、

    信長方の使いは宮内卿法印・佐久間

    信盛、大坂受け取りの検使を矢部家貞

    がつとめた。

1582年従二位・権大納言。

1601年正月従一位・准大臣。

1602年12月死去。

1614年贈内大臣武家伝奏の職にあったので、

織田・豊臣氏と関係が深くまた千利休とも

交誼があった。日記「晴豊日記」が現存する。



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