勧修寺晴豊(くゎんじゅじはれとよ)[1/2]
〔現代仮名遣い〕かんじゅじはれとよ
※「かじゅうじ」と読む場合もあります。
※記事量多いので2回に分けての投稿です。
※下線部は信長公記以外の記事によります。
左大弁宰相殿・勧修寺中納言殿・勧修寺殿。
権中納言晴右の子。
1553年元服。
1572年正四位上参議・右大弁。
1575年7月誠仁親王主催の蹴鞠の会に参加。
1576年12月権中納言。
1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙
に同行。
1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺
晴豊・庭田重保を勅使として石山
本願寺へ送り、信長方との講和を
命ずる。信長方からは宮内卿法印・
佐久間信盛が目付けとして添えら
れた。本願寺顕如光佐・北の方・
家老衆が下問した所、下間頼総・
平井越後・矢木駿河・井上・藤井
藤左衛門らが評定を行い、勅定を
受けることを決める。顕如光佐は、
7月20日までに大坂を退出する旨
告げ、下間仲之・下間頼廉・下間
頼竜・北の方・門跡の連名で誓紙
を提出。信長方青山虎が検使をつと
める。
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※「かじゅうじ」と読む場合もあります。
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左大弁宰相殿・勧修寺中納言殿・勧修寺殿。
権中納言晴右の子。
1553年元服。
1572年正四位上参議・右大弁。
1575年7月誠仁親王主催の蹴鞠の会に参加。
1576年12月権中納言。
1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙
に同行。
1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺
晴豊・庭田重保を勅使として石山
本願寺へ送り、信長方との講和を
命ずる。信長方からは宮内卿法印・
佐久間信盛が目付けとして添えら
れた。本願寺顕如光佐・北の方・
家老衆が下問した所、下間頼総・
平井越後・矢木駿河・井上・藤井
藤左衛門らが評定を行い、勅定を
受けることを決める。顕如光佐は、
7月20日までに大坂を退出する旨
告げ、下間仲之・下間頼廉・下間
頼竜・北の方・門跡の連名で誓紙
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