『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

勧修寺晴豊(くゎんじゅじはれとよ)[1/2]

2017-02-05 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
勧修寺晴豊(くゎんじゅじはれとよ)[1/2]

〔現代仮名遣い〕かんじゅじはれとよ

 ※「かじゅうじ」と読む場合もあります。

 ※記事量多いので2回に分けての投稿です。

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


左大弁宰相殿・勧修寺中納言殿・勧修寺殿。

権中納言晴右の子。

1553年元服。

1572年正四位上参議・右大弁。


1575年7月誠仁親王主催の蹴鞠の会に参加。

1576年12月権中納言。

1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙

    に同行。

1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺

    晴豊・庭田重保を勅使として石山

    本願寺へ送り、信長方との講和を

    命ずる。信長方からは宮内卿法印・

    佐久間信盛が目付けとして添えら

    れた。本願寺顕如光佐・北の方・

    家老衆が下問した所、下間頼総・

    平井越後・矢木駿河・井上・藤井

    藤左衛門らが評定を行い、勅定を

    受けることを決める。顕如光佐は、

    7月20日までに大坂を退出する旨

    告げ、下間仲之・下間頼廉・下間

    頼竜・北の方・門跡の連名で誓紙

    を提出。信長方青山虎が検使をつと

    める。

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