『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

柴田勝豊(しばたかつとよ)

2017-07-21 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田勝豊(しばたかつとよ)

〔現代仮名遣い〕しばたかつとよ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


伊賀守。吉田次兵衛の子で母の弟勝家の養子

となる。

1581年2月越前の柴田勝家・柴田勝豊・柴田

    三左衛門尉が京都の信長のもとへ参上

    し、珍奇のものを進上しお礼を申上。

1581年2月京都の馬揃えで、越前衆として参加。

1582年6月清洲会議で柴田勝家が入手した

北近江三郡を与えられ長浜に移る。勝家と不和

になりそれを知った羽柴秀吉に攻められ、同年

12月降伏。

1583年4月賤ヶ岳の戦いのときは病気療養のため

京都にあり、同月死去。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 柴田勝家(しばたかついへ)[... | トップ | 柴田勝政(しばたかつまさ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

信長公記の蔵:人物篇」カテゴリの最新記事