『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

今川義元(いまがはよしもと)[1/5]

2016-02-28 07:54:37 | 信長公記の蔵:人物篇
今川義元(いまがはよしもと)[1/5]

〔現代かなづかい〕いまがわよしもと

 ※戦国期の主要人物で記事量多いので、

  5回に分けて記事投稿です。

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


今川氏親の三男。母は中御門宣胤の女寿桂尼。

幼い時に出家させられ、梅岳承芳と称し駿河

富士郡瀬古善得寺の喝食であった。


1536年3月兄氏輝死亡。5月に12代将軍義晴から

    偏諱を受け「今川義元」と名乗る。

1536年6月北条氏の支援もあり、兄玄広恵探を

    自刃に追い込み家督を継ぐ。

    【花蔵の乱】

1536年6月伊勢に流れていた松平広忠が今川義元を頼る。

※1537年頃までに、北条氏綱は今川氏親の女(むすめ)

    瑞渓院を正室に迎える。

1537年2月義元は父氏親以来の武田氏との対立関係

    を解消し、武田信虎の女を娶った。北条氏綱

    は1536年の花蔵の乱で支援してやったのに

    裏切られ激怒。北条氏綱は駿河へ進出。

1537年6月武田信虎、義元の援軍として須走口まで

    進軍するも効果なく、北条氏綱興津まで押し

    寄せる。以後富士川河東地区は北条領となる。

1540年6月織田信秀に三河安祥城を攻陥される。

1542年8月織田方に取られた安祥城を取り戻そうと、

    今川軍が出働。織田信秀方、岡崎城川向かい

    の小豆坂の戦いで今川軍を撃退。

    【第一次あずき坂の戦い】


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