今川義元(いまがはよしもと)[1/5]
〔現代かなづかい〕いまがわよしもと
※戦国期の主要人物で記事量多いので、
5回に分けて記事投稿です。
※下線部は信長公記以外の記事によります。
今川氏親の三男。母は中御門宣胤の女寿桂尼。
幼い時に出家させられ、梅岳承芳と称し駿河
富士郡瀬古善得寺の喝食であった。
1536年3月兄氏輝死亡。5月に12代将軍義晴から
偏諱を受け「今川義元」と名乗る。
1536年6月北条氏の支援もあり、兄玄広恵探を
自刃に追い込み家督を継ぐ。
【花蔵の乱】
1536年6月伊勢に流れていた松平広忠が今川義元を頼る。
※1537年頃までに、北条氏綱は今川氏親の女(むすめ)
瑞渓院を正室に迎える。
1537年2月義元は父氏親以来の武田氏との対立関係
を解消し、武田信虎の女を娶った。北条氏綱
は1536年の花蔵の乱で支援してやったのに
裏切られ激怒。北条氏綱は駿河へ進出。
1537年6月武田信虎、義元の援軍として須走口まで
進軍するも効果なく、北条氏綱興津まで押し
寄せる。以後富士川河東地区は北条領となる。
1540年6月織田信秀に三河安祥城を攻陥される。
1542年8月織田方に取られた安祥城を取り戻そうと、
今川軍が出働。織田信秀方、岡崎城川向かい
の小豆坂の戦いで今川軍を撃退。
【第一次あずき坂の戦い】
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今川氏親の三男。母は中御門宣胤の女寿桂尼。
幼い時に出家させられ、梅岳承芳と称し駿河
富士郡瀬古善得寺の喝食であった。
1536年3月兄氏輝死亡。5月に12代将軍義晴から
偏諱を受け「今川義元」と名乗る。
1536年6月北条氏の支援もあり、兄玄広恵探を
自刃に追い込み家督を継ぐ。
【花蔵の乱】
1536年6月伊勢に流れていた松平広忠が今川義元を頼る。
※1537年頃までに、北条氏綱は今川氏親の女(むすめ)
瑞渓院を正室に迎える。
1537年2月義元は父氏親以来の武田氏との対立関係
を解消し、武田信虎の女を娶った。北条氏綱
は1536年の花蔵の乱で支援してやったのに
裏切られ激怒。北条氏綱は駿河へ進出。
1537年6月武田信虎、義元の援軍として須走口まで
進軍するも効果なく、北条氏綱興津まで押し
寄せる。以後富士川河東地区は北条領となる。
1540年6月織田信秀に三河安祥城を攻陥される。
1542年8月織田方に取られた安祥城を取り戻そうと、
今川軍が出働。織田信秀方、岡崎城川向かい
の小豆坂の戦いで今川軍を撃退。
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