『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

簗田広正(やなだひろまさ)

2019-11-06 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
簗田広正(やなだひろまさ)

<現代仮名遣い>やなだひろまさ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


左衛門太郎。別喜右近。簗田氏は尾張沓掛の豪族。

広正は四郎左衛門の子。信長の臣。

1560年桶狭間合戦のとき信長の作戦の唯一の支持

者であったことから、戦後沓掛三千貫の領地を下

されたという。


1570年6月の浅井攻めに参戦し、退却時殿の奉行

    をつとめる。

1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、穴

    太の在所を守備。

1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、信

    忠の軍勢として市江口を攻撃。

1575年7月誠仁親王が蹴鞠の会を主催。信長、主

    上から天盃を授かり見物。

同日主上から昇官を勧められるが、信長は遠慮

    して受けず。そのかわり、下記の人事を

    奏上した。

    *松井友閑→宮内卿法印
 
    *武井夕庵→二位法印

    *明智光秀→惟任日向守

    *簗田広正→別喜右近 

    *丹羽長秀→姓を惟住に。

1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。つい

    で加賀へ進攻。檜屋城・大聖寺城を造営

    し守備。

1578年6月信忠から兵庫・高砂の路次警護の替番

    を命じられる。

のち安土に蟄居。


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