簗田広正(やなだひろまさ)
<現代仮名遣い>やなだひろまさ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
左衛門太郎。別喜右近。簗田氏は尾張沓掛の豪族。
広正は四郎左衛門の子。信長の臣。
1560年桶狭間合戦のとき信長の作戦の唯一の支持
者であったことから、戦後沓掛三千貫の領地を下
されたという。
1570年6月の浅井攻めに参戦し、退却時殿の奉行
をつとめる。
1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、穴
太の在所を守備。
1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、信
忠の軍勢として市江口を攻撃。
1575年7月誠仁親王が蹴鞠の会を主催。信長、主
上から天盃を授かり見物。
同日主上から昇官を勧められるが、信長は遠慮
して受けず。そのかわり、下記の人事を
奏上した。
*松井友閑→宮内卿法印
*武井夕庵→二位法印
*明智光秀→惟任日向守
*簗田広正→別喜右近
*丹羽長秀→姓を惟住に。
1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。つい
で加賀へ進攻。檜屋城・大聖寺城を造営
し守備。
1578年6月信忠から兵庫・高砂の路次警護の替番
を命じられる。
のち安土に蟄居。
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村
<現代仮名遣い>やなだひろまさ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
左衛門太郎。別喜右近。簗田氏は尾張沓掛の豪族。
広正は四郎左衛門の子。信長の臣。
1560年桶狭間合戦のとき信長の作戦の唯一の支持
者であったことから、戦後沓掛三千貫の領地を下
されたという。
1570年6月の浅井攻めに参戦し、退却時殿の奉行
をつとめる。
1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、穴
太の在所を守備。
1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、信
忠の軍勢として市江口を攻撃。
1575年7月誠仁親王が蹴鞠の会を主催。信長、主
上から天盃を授かり見物。
同日主上から昇官を勧められるが、信長は遠慮
して受けず。そのかわり、下記の人事を
奏上した。
*松井友閑→宮内卿法印
*武井夕庵→二位法印
*明智光秀→惟任日向守
*簗田広正→別喜右近
*丹羽長秀→姓を惟住に。
1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。つい
で加賀へ進攻。檜屋城・大聖寺城を造営
し守備。
1578年6月信忠から兵庫・高砂の路次警護の替番
を命じられる。
のち安土に蟄居。
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村