『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

池田恒興(いけだつねおき)[4/4]

2015-10-27 10:14:04 | 信長公記の蔵:人物篇
池田恒興(いけだつねおき)[4/4]

〔現代かなづかい〕いけだつねおき


 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


1582年5月羽柴秀吉の高松城攻囲の様子を

    聞き、信長は自ら出馬することを決め、

    堀秀政を使いとして秀吉に細かく指示

    する。また惟任光秀・長岡忠興・池田

    恒興・塩河吉大夫・高山重友・中川清秀

    らに先陣として出勢するよう命ずる。

本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智

光秀を討ち、清洲会議の結果、秀吉・柴田

勝家・丹羽長秀とともに四宿老に列した。

その後、秀吉に与力し賤ヶ岳に従軍し、

その功により1583年神戸信孝旧領十三万石

を継ぎ美濃大垣城主となる。1584年小牧・

長久手の戦いで、女婿森長可(可成の嫡男)

と犬山城を攻略。その後羽黒の戦いに敗れ、

1584年4月徳川家康の本拠三河を衝こうと

した羽柴秀次軍に属して長久手で討死に。



 ※織田信長の乳兄弟も運命にもてあそばれ

  壮絶な最期を遂げてしまいました。


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