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『よし』・『ゆき』、我が家に住むペンギン?の「ペン太」の散策記です!

『目指せ多摩川越え!今日こそ神奈川へ!!』 (品川宿~川崎宿) ~東海道歩き旅レポート その② 2日目前編 2017.8.11(金)

2017-08-11 20:59:27 | 街・観光地編2017

【日付】2017年8月11日(金)
【天候】どんよりとした今にも降り出しそうな曇り空

 坂本龍馬の像。
東京にも有るのは、何時ぞや見た『何かのテレビ番組』で知っていたけれど、東海道から直ぐの所に有る事は、今回初めて知りました。
ならば序に会いに行こう♪

 今回は東海道散策の2回目。
お盆休みに入り、続けて歩く事が出来る1日目。
何処まで行く事が出来るかな?
寄りたい所が沢山有るけれど、最低でも東海道53次の次の宿場である『川崎宿』には辿り着きたい。

 江戸時代の旅人は、初日に日本橋から『戸塚宿』かその1つ手前の『保土ヶ谷宿』迄歩いていたとの事。
日本橋、品川、川崎、神奈川、戸塚、保土ヶ谷と言う順番。

 「寄り道せず、早朝に出発して…と言うのならどうかな?」

と思うけれど、それでも結構厳しい行程。
私は日本橋から品川で初日を費やしてしまった。
今日は品川からだけれど、出来れば神奈川宿迄行きたいな。

 今日は品川駅スタート。
昨日の終了地点『青物市場駅』スタートでも良いのだけれど、

 「品川宿で『見そびれた物』、『もう1度しっかりと見たい物』を見ておきたい」

と言う気持ちが強く、品川駅からのスタートにしました。

 駅の中はもの凄い人の数。
日本人だけでなく、海外からの観光客の方々も凄い人数。
『海外からの観光客数が過去最大』と言うニュースや『観光立国を目指す』という国の施策の流れの中での変化を実感できる光景でした。

 品川宿の入口。
京急の踏切を渡った場所からが品川宿。
踏切の右に京急の北品川駅が見えます。
品川宿の入口から歩きたいのであれば、北品川駅が最寄り駅になります。

 今日のお供は「夏フェスペン太」と「学ランペン太」。
空模様が怪しいので、「ポンチョ姿」と「社会科見学の学ラン」と言う趣向です。


 問答河岸跡の碑。
東海寺の僧侶と将軍の問答(会話)がされた場所との事。
当時は「直ぐ其処が海」だったのですが、埋め立てによって海岸は遥か先に。

 「何処かから海がチラッと見えるかな?」

と思っていたのですが、その姿は全く見えませんでした。
この先、「海を目視出来る場所に辿る着くのが、あんなに先になるとは・・・・」とは、この時は思っていませんでした。

 トラックの前にオブジェが有りますが、「クジラの骨」なのではないかな?
右奥が鯨塚の有る利田神社です。


 公園には海面(水面)から顔を出す鯨の姿とスプリングで弾む鯨の遊具が。
遊具も鯨だったんだね。
 宝くじのマスコットクーちゃんとか、コンビニのホエールズチェーンの鯨のマスコットとかもひっそりと混ざっていないかな?


 前回の訪問では、すっかり忘れて見そびれた鯨塚。
東京湾に迷い込んだ鯨の骨を葬った塚との事。
 「土の山が有るのかな?」
と思っていたのだけれど、平らな地面はコンクリートで覆われ、その上にこの岩が有るだけ。
これだと気付かずに立ち去ってしまうのも分かるかと・・・。



 利田神社の側面。
拝殿の裏の飛び出た部分が本殿か祭壇かな?


 この日は猫さんに出会いました。
声を掛けると「にゃぁー」と答える子。
首輪はしていないけれど、人に慣れている様子。
誰にでも寄ってくると言う訳では無く、この微妙な距離は保ったまま。
でも、写真を撮らせてくれました。


 地面に置かれた扁額。
昔は何処に有ったのかな?


 商店街を歩き、名物のせんべい屋さん「王将」の先に品川神社が。
電柱の上部右に岩山が見えます。
品川神社の富士塚で、人が上り下りしていました。
結構高度感が有って、横断歩道の反対側から見上げると迫力が有ります。
ユキさんと参拝に訪れる予定なので、
 「行かずにそのままにしておこう」

 富士塚の様子。
神社へは右手の鳥居から階段を登っていくのか。
気になったけれど、今回はパス。

 品川神社は、品川七福神の大黒様なんだね。
此処の七福神も大きな石造。
品川七福神は、こう言った大きな像ばかりなのかな?


 先日訪れた荏原神社に今回も参拝。

 此処は恵比寿様。
大きな石造です。


 品川寺(ほんせんじ)。
江戸六地蔵の1つである鉄製の地蔵菩薩が鎮座しています。


 先日は時間が遅くて此処迄でしたが、この日は山門を入り、参拝を。


 神仏分離令以前の痕跡なのか、神社も。


 大銀杏と。


 天保3年11月建立の石の祠。


 庚申塔と道祖神。


 修験道の役行者じゃないかな?


 本堂。


 五輪塔とその周りに七福神の石像が。


 福禄寿。
 この品川寺も七福神の1箇所なのだけれど、此処の石像は小さい。
この場所には七福神全てが並んでいます。

 品川寺の御朱印。
本堂の中にも鳥居が有ります。
神仏分離令以前から残っている物なのか、後に建てられたものなのかは分かりませんが、昔の寺社では普通の光景だったのではないかな?

品川寺(ほんせんじ)
HPhttp://honsenji.net/

 真言宗醍醐派別格本山で江戸三十三観音三十一番札所、東海三十三観音二十一番札所。
大同年間(806~810)創立で弘法大師によって開山されたと伝わるお寺。
本尊は観世音菩薩(水月観音、聖観音)の内、水月観音は、弘法大師からこの地を収める品河氏に授けられたもので、1395年の上杉禅宗の乱で品河氏が滅んだ後は、水月観音が安置された堂は観音堂と言われ、信仰を集めたとの事。
後に大田道灌が自分の持ち仏である聖観音を安置し、此処に伽藍を建立し金華山普門院大円寺としたとの事。
 永禄9(1566)に武田信玄に因る小田原攻めの際に品川一帯が焼き払われ、水月観音が持ち去られましたが、後に戻されたそうです。
大きな寺となったのは江戸時代の事で、4代将軍徳川家綱の時代だそうです。
江戸時代末期から明治に移行する頃には鐘楼が海外に搬出されたりと、荒廃の一途を辿り、大正に入って再興が図られて現在に至るとの事。


 直ぐ近くの海雲寺へ。
1251年創建のお寺で、本尊は11面観音。
千躰三宝大荒神王は江戸33観音巡りの1つ。


 右は平蔵地蔵尊。
江戸時代、鈴ヶ森の刑場で番人をしていた乞食の1人平蔵の為に作られた物。
侍の財布を拾った平蔵は、中に大金が入っていた物の、「落とした人は困っているだろう」と言う思いで、財布を届け出ました。
財布は無事に持ち主の元に戻り、平蔵は謝礼のお金を受け取りました。
乞食仲間3人で住む家に帰宅し、仲間にその話をしたところ、仲間は「財布を届けず持ち帰れば、その金で自分達は乞食から足を洗う事が出来たのに・・・」
と言い、平蔵を家から追い出し、平蔵は、野外で凍死して亡くなりました。

 その話を聞いた財布の持ち主である仙台屋敷の侍は、遺体を引き取って青物横丁の松並木の場所に葬り、地蔵を建てて。
明治になり、京浜電車がその場所に通る事になり、当時の海雲寺の住職が地蔵を海雲寺に移したとの事。

 昔から多くの人々の生活の場であった街道沿いの街。
それが伝説や歴史上の偉人、武将ではなく、大多数の庶民が生活し、行き来したた場所と言う事もあり、庶民が絡む史跡、旧跡、逸話が多いです。
教科書では扱われない人々の話・・・。
 「乞食暮らしの平蔵が正しい行いをしながらも非業の死をを迎える」
 「でも、こうして何百年経っても残る地蔵とその逸話が人々に伝えられ、私を含めて多くの人々が平蔵の死を悲しみ、手を合わせる」
とても「人間臭い、生々しい史跡」。
同じ人間が絡む物なのに、京都、奈良等の観光地の史跡を廻るのとは大きく異なる印象を感じました。

 生存中の平蔵にとっては、とても悲しくてやるせない気持ちになる物事なのですが、何百年経っても見ず知らずの人々が貴方の事を知り、手を合わせていると言うのは、救いになっているかな?
そうであって欲しいな。

 「正直者が・・・」と言うのは現代にも当てはまる事。
平蔵の事を知った上で訪問したのだけれど、チョット悲しくなったなぁ。

 静かなお寺の敷地内、平蔵地蔵尊の前で手を合わせ、彼是心の中で思う事が有りました。 


 海雲寺の本堂。
此処に千躰荒神が安置されています。
 千躰荒神は火と水を守り神様で、台所に祭り災難除けと衣食住に不自由しない様祈る対象になっています。
 島原の乱に出陣の際、鍋島甲斐守直澄が天草の荒神が原の荒神に必勝祈願をし、無事鎮圧する事が出来た事から、江戸高輪の屋敷に遷座したそうです。
それを明和7年に勧請して祀ったのが海雲寺の千躰荒神との事。

 此処にも役行者が。
昔は修験道の寺院だったのかな?

海雲寺 HPhttp://sentaikoujin.com/

 龍吟山海雲寺は曹洞宗のお寺で、建長3年(1251)不山(ふざん)によって開基。
当初臨済宗の寺だったが、慶長元年(1596)耕大を開山として曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)に海雲寺になったとの事。
本尊は十一面観音で建長3年(1598)の物。
鎮守として千躰三宝大荒神王を祀っています。

 青物横丁の先、鮫洲八幡神社へ。
鮫洲八幡神社はお祭り当日。
拝殿の前にお神輿が。


 嘉永2(1849年)建立左側の狛犬。


 右の狛犬。
子宝に恵まれるという謂れが有る狛犬。
右の狛犬に触れると男児が、左は女児が…との事。
叶うかな?


 間近でお神輿を。
海外から来られた方も写真を沢山撮られていました。
この距離で長々と見られるのは貴重だよなぁ~。
生憎宮司さんはお祭りの為に外出中で、御朱印は戴けなかったのですが、御神輿をまじまじと見られた事に感謝。


 四隅の上部には獅子、その周囲は波の彫物。
上部の屋根の下も神社の拝殿で見られる様な造り。
神様の乗り物で、神様がこれに乗って街を廻るのだけれど、

 「御神輿の造りは神社の拝殿そのものなんだなぁ~」

と言う事がよく分かりました。


 境内は広く、境内社も。

 水が湧き、池と池に囲まれた境内社が。

※鮫洲祭礼会HP http://www.ann.hi-ho.ne.jp/tomozawa/index.html
 東京神社庁 紹介ページ http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/shinagawa/5256
 品川観光協会HP 紹介ページhttp://www.sinakan.jp/entry.html?id=34924



 立会橋で右折し、公園の入口に立っているのが坂本龍馬像。
この地に龍馬が務めていた浜川砲台が有ったとの事。


 商店街には龍馬と馬のマスコットが。
先程の鮫洲の商店街には鮫を模したマスコットが居り、それぞれの商店街にゆるキャラが。
「ゆるキャラブームなんだなぁ」
と、改めて実感。

※ 立会川駅前通り繁栄会HP http://tachiaigawa.com/

 これが立会川と浜川橋。
 立会橋は別名『泪橋』で、この先が鈴ヶ森の刑場で、親族とは、この橋で別れたというのが『泪橋』と言われた由来。

 子供の時に読んだ『あしたのジョー』の最初の方のシーンで、泪橋と周辺のバラック等の貧しい暮らしをしている人々の街並みが描かれていたのをぼんやり覚えています。
『あしたのジョー』は、何巻か立ち読みをしただけなのですが、何だかそのシーンだけは子供心に強く残っていました。
意味もよく分からず「何故、泪橋と言うのか」も分からないし、ジョーの一言に込められた意味も分かっていなかったのだけれど…。
『あしたのジョー』の泪橋は品川区ではなく、荒川区と台東区の境を流れる「思川」に掛かる泪橋との事。
然し、両方ともに近くに刑場が有り、荒川区の方は、山谷地区や簡易宿泊施設が有る地域との事。
街の感じは似ているのかな?
此処品川区も、大通り沿いは奇麗な高層ビルやマンションが並ぶけれど、一歩裏に入ると…と言う感じだし。

 天祖・諏訪神社。
絵馬の願い事に「嵐のチケットが当たりますように」と言う物が多く、「?」と思ったのだけれど、調べてみると嵐の相葉クンが番組の中で「勝利祈願」に訪れたとの事。
その為、嵐ファンが訪れる神社になったとの事で、勝利祈願の御守りを求める人が訪れたり、前述の「嵐のチケットが当たりますように」と言った願い事を記した絵馬が多くみられる様になったようです。
それを知ってから訪れれば、異なる印象を持ってそれらを見る事が出来ただろうに。
全く知らなかったので、
 「何だろう?この辺りには嵐のファンが多いのか?」
 「チケットやクジの当選と言った事に御利益が有る神社なのかな?」
と、思ってしまった。


 奥が拝殿で左が社務所。
右手に池や境内社の厳島神社等が有ります。
天祖・諏訪神社と言う変わった名は、天祖神社と諏訪神社が1965(昭和40)に合祀されたからだそう。
天祖神社は建久年間(1190~1199)以前の創建とされ、諏訪神社は寛永8(1631)年以前に創建されたと言われています。
因みに、御朱印を戴く事が出来る神社です。

※天祖・諏訪神社 HP http://www.tensosuwa-jinja.jp/index.html
    フェイスブックhttps://ja-jp.facebook.com/tensosuwa.jinja/
 東京都神社庁 天祖・諏訪神社紹介ページ http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/shinagawa/200106


 地図には『海運稲荷神社』と有り、どの様な神社かと思ったら、駐車場の突き当りに鳥居と小さなお社が有る神社。
左隣が『山昌水産』と言う会社で、この会社と関係が有るのかな? 


 道を進んでいき、辿り着いたの写真中央から左手にかけての木が多く植えられた一角。
道路の右手に有り、お寺が隣接してあります。
道の先、横断歩道を渡るとしながわ水族館へ向かう道の入口が有り、水族館へ向かう親子連れやカップルを多く見掛ける場所です。
大森海岸駅からしながわ水族館へ向かう曲がり角迄と、横断歩道を渡ったこの場所とは明らかに違う意味合いの有る場所になっています。

 道は綺麗に舗装され、歩道も歩道の植え込みも綺麗に整備されているのですが、前述の木が並んでいる一角は、『鈴ヶ森の刑場』の跡です。
当然ながらこの狭い一角だけが刑場ではなく、この辺り一帯が敷地だった訳ですが、『史跡』として残されているのがこの一角と言う事です。
広さは74m×16.2m有ったとの事。

 火焙り台。
鉄製の柱をこの穴に射して建てて使ったとの事。 


 磔台。
磔にされる人に対し、この穴に角材を射して角材を建てるという使い方です。



 この様に並べられて置かれています。
 慶安4(1651)に開設され、明治4(1871)に閉鎖される迄に10~20万人の人が処刑されたと言われています。
はっきりした記録が無く、その人数は分からないとの事。
磔の刑以外に、当時は直ぐ傍の海での水磔と言う処刑も行われていたそうです。

 有名な人物では、
 「由井正雪と共に慶安の変で幕府転覆を計った丸橋忠弥」
 「元鳥取藩士で、殺害事件を起こして江戸に逃亡後、生活に困窮して130人もの人を辻斬りしたとされる平井権八(歌舞伎や浄瑠璃等で扱われる)」
 「徳川吉宗の御落胤と言い、天下を乱した罪で死罪となった天一坊」
 「歌舞伎や文楽等で扱われた八百屋お七」
と言った人物が此処で処刑された。



 鯉塚も有ります



 首洗い井戸。
切り落とした首を洗う為の井戸。

 当時の捜査は科学的な物ではないから、冤罪も多く有っただろうし、厳格な身分制度の時代だったから、理不尽な判決も納得しかねる物も多く有ったのではないかな?
江戸の町の外とは言え、東海道沿いにこう言った施設が有ったと言うのも驚きなのだけれど、「そう言う配慮」と言う事を考える事は無かったのかな?
逆に「悪い事をすると・・・」と言う見せしめの意味も有ったのかな?

 すぐ後ろは第一京浜で、車がひっきりなしに通る道路。
冥福を祈って静かに手を合わせるには不向きだし、薄暗い、寂しい場所に有りそうな施設ですが、明るい場所で、周辺の道路も幅が広くて綺麗で、「おどろおどろしさ」と言うのも無い。

 唯、様々な事を考えると気が重くなる感覚を得る。

 「罪人(つみびと)も、それに巻き込まれた人、関係者も全て、良くも悪くも彼是感じ、考え、迷い、苦しみ、決断し、その人なりに頑張ったり、必死になったり・・・そうやって生きたのだろうなぁ・・と」

正確な処刑者数は不明ながら、10~20万人と言われていますが、それ程にも多くの人がこの地で命を落とし、夫々に人生が有ったのだから…と思うと、

 「今となってはどうしようもないけれど」

と言う気持ちと、

 「何か出来る事、生かす事が出来る物は無いだろうか?」

と、思う訳で・・・。


 手を合わせ、此処で命を落とした方、その罪によって苦しむ事になった方々の事を祈りました。
そして、此処にこの場所の事を、私が感じた事を記しておこうと。
あとは、この地の事を知った方々が、どの様に感じ、考えるかは、その方々にお任せしよう。
結果はどうであれ、様々な事を知り、感じる事、考える事は有益な事だと思う。
 

 鈴ヶ森刑場を過ぎ、横断歩道で第一京浜を反対側に渡った。
少し行った所に有るのが磐井神社。
この磐井神社は延喜式神名帳に記載されている神社。

 磐井神社の狛犬。
3匹の子達が生き生きとしている点と、母が前足で軽く押さえて子の面倒を見ながら視線は鳥居の方を向き、神社を守る仕事をしているという点。
じゃれる2匹の子狛犬と母親の背中によじ登りながらじゃれる2匹を見ているもう1匹の子。
構図が凝っているなぁ~と。
意図や想いが籠められているのかなぁ~?

 この狛犬は明治14年の物。


 磐井神社の御朱印。
毎月変わる御朱印で、朝顔と風鈴が『葉月』、『8月』の御朱印。


 色付きのカラフルな物も。
此方は書置きの物で、この他の色も有ります。
この書置きの物も戴きました。
此方も朝顔。

※東京神社庁 紹介ページ http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/ota/5460



 更に先を進みます。
少し秋には大森神社が。
拝殿と右の鉄筋コンクリートの建物が社務所。
此処も御朱印を戴く事が出来るのですが、今回は参拝のみ。

※東京神社庁 紹介ページ http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/ota/5604



 此処で行きたい場所が。
地図を見て、下調べをしていて気になった場所が有るのです。

 第一京浜から離れ、裏通りを。

 小さな公園の片隅に小さな神社が。
此処は『甘酒稲荷神社』と言う名の神社。
宮司さんも居らず、古い狐の石仏と扉が閉まった小さな拝殿、鳥居が有るだけの変わった名前の神社。

 「咳止めの御利益が有り、治ったら御礼に甘酒を奉納した」

との事。
小さい神社で、東海道(第一京浜)から離れた細い裏路地に有るので、観光客が訪れる事は無いだろうなぁ。
でも、その変わった名前によって、私の様な者が訪れる事は有るのかな?
今でも「咳止め祈願」や「甘酒の奉納」は有るのかな?
幸い風邪もひいていないし、咳をする状態でもない。

 「自分と家族、周囲の人達の健康」

を祈っておこう!


 王森稲荷神社。
非常に狭い境内だけれど、鳥居と拝殿の朱色、幟旗が目立つ神社でした。
大森宿の中に有り、「大森」と「王森」と字が違うけれどこの地の事を意味し、この地を守る神社なのかな?
その事についての記述は、案内板には記されていませんでした。


 左側の狛狐。


 左奥の幟が王森稲荷神社で、すぐ近くにさらに古い感じで荒れ放題の稲荷社が。

「此処から現在の王森稲荷神社に移転したのかな?」

何も案内は無いし、放ったらかしの感が有るけれど、狛狐に金網が設置されているし・・・。
取り壊される訳でもなく、建物が直される訳でもなく、何だか寂しい気分に・・・。

 調べてみると、ここは最勝稲荷大明神と言う名の神社との事。

 この古い稲荷社の狛狐。
何を思うのかな?


 大森の商店街。


 シャッターには、浮世絵が描かれていますし、店の前の看板の文字が掛かれている部分は木製・・・と、宿場の雰囲気を壊さない様に商店街で気を使っているのが好印象です。


 享保年間に創業したという『餅甚』さんでお土産の安倍川餅を購入。
現在の静岡県から創業者がこの地に移って来て創業したとの事。
安倍川餅だけれど、「大森名物」としているのも、「それなら納得」。



 享保元年創業か・・・。
1716年の事だから、創業301年目。
昨年は創業300年だったけれど、何か行ったのかな?


 安倍川餅。
黒蜜が付いてきます。
なかなか美味しい物でした。
また大森宿を訪れる機会が有れば、是非とも立ち寄りたいですね。
 大森宿は間の宿(あいのしゅく)で、間の宿は、正規の宿場と宿場の間にある休憩施設が置かれた宿場。
宿場は宿泊が認められているのに対して、間の宿は宿泊は禁止だったので、茶店等があるだけ。
品川宿から次の川崎宿迄は距離が有るので、昔は茶屋として和菓子を出していたのかな?

 土産として購入したけれど、土産以外にその場で食べる物も欲しかったなぁ~。
腰掛程度で良いので椅子が有って緑茶が出るなら、御団子や赤飯を食べて、再び元気に歩き出す!
そうしたかったなぁ~。

 大森宿を過ぎ、東海道は再び第一京浜を進みます。
谷戸交番の横に小さなお社が有り(写真左)、その右手のフェンスの向こうに貴舩神社が有ります。



 子のお社の中には右の閻魔大王、左の延命地蔵と2体の石仏が。
閻魔堂や延命地蔵尊と言った1体のみのお堂は知っているけれど、この組み合わせのお堂は初めて。
延命地蔵に長寿を、閻魔様に死後の事をお願いしたのか、閻魔様にも長寿をお願いしたのかな?

 この辺りは『谷戸宿立場』と言う旅人の休憩場所だったとの事。
延命地蔵には寛文5(1665)の刻印が有るとの事で、閻魔大王は制作年は不明との事。
平成16(2004)に第一京浜の拡幅に伴い、お堂を新築、痛みが激しい延命地蔵を修復したとの事。



 貴舩神社。
社務所も有りますが、無人の神社。
左手に境内社も。

 大森村の本宿の鎮守で。1909(明治42)年に向かいに有った菅原神社を合祀。
大正時代に道路の改修に因り場所を変え、1945(昭和20)年に空襲に因り焼失。
1952(昭和27)年に再建、2014(平成25)年に第一京浜の拡幅工事に伴い、社地が京急線の線路寄りに移され、社殿も修築されたとの事。
『貴舩神社』が正式名称ですが、『貴菅神社』、『貴菅さん』とも呼ばれているそうです。

【住所】東京都大田区大森西5-27-7 
【祭神】高竈神、菅原道真
本務社は大森貴舩神社 


左の狛犬。
大正4年の物
目を瞑っているのか、細めているように見えます。
腰を落としてほぼ座っており、前足を毬に乗せています。 


 右手の狛犬。
2匹の子が居り、足元に1匹、もう1匹は背中によじ登って遊んでいます。

狭い神社で、地面はコンクリートとアスファルトで、すぐ前が歩道と第一京浜。
植栽は柵沿い等ごく僅かな植込みの部分に背の低い木々が有るのみ。
引っ切り無しに通る車の音に背後の効果を通る電車の音に・・・と、静寂さや心が鎮まる…っと言った場所ではないのが残念ですが、狛犬を見ても、遷座や焼失と言った歴史の中でもこうやって残っていると言う事実を見ても、地域の人々に大切にされ、引き継がれてきた事が分かります。
この狛犬は、どう言った物を見てきたのかな?
そして、今後も見ていくのかな?



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