成人T細胞白血病リンパ腫の夫・・・自宅での朝

2025-03-10 13:38:49 | 日記

最近の介護ベッドの素晴らしさに驚きました。

リモコン操作なのはもちろんですが、

マットの質は良いし(夫は、臀部に褥瘡ができていました)、

高さ調節、背面から足元まで角度が自由に調整でき、

ベストな位置を記憶させることもできます。

補助のベッドサイドの手すりも とても持ち易くて力が入れやすいものでした。

介護業者さんがポータブルトイレの高さを調整してくれて、

ベッドとの高さ調節の仕方なども教えてくれました。

 

病状が悪化した頃から 夫は 紙パンツを着けていましたが、

ベッドの上で、紙パンツや紙オムツに排便はどうしてもできませんでした。

ベッドの上に起き上がるまでに30分かかり、

息を整えてポータブルトイレに移って座るのに 10分、

排便に 30分、

終われば ベッドに移って横たわるまで 10分、

咳き込みが収まって、息が整うまで1時間~2時間。

血中酸素濃度(正常値は96~99%)が

80%台から 時には70%台にまで下がるのですから、命がけです。

家へ帰って来るとなった時の 大きな課題の一つでした。

病院なら、すぐにナースコールで助けを呼ぶことができますが。

・・・

2025年1月14日 午後16時頃。

便意を感じるという夫。

設置してくれたポータブルトイレへと移り排便。

午前中に、酸素の装置を設置してくれた業者さんは、

ポータブルトイレに座ったときの位置を確認し、

酸素吸入のチューブの長さを調節してくれていました。

 

嘘のように、楽に排便を済ませることができました。

 

「お父さん!!」

「明日は病院へ帰らないといけないけど、

これだったら 家で居られるよ~~!!」

「先生にお願いして、先生がおっしゃっていたように自宅療養にして、

しんどいときは 又 入院でも往診でもしてもらうようにしようよ」

夫も、うなずいていました。

私はその時、本当に嬉しくて、

『ひょっとしたら リビングから見える桜の花を一緒に見られるかもしれない』

と、思っていました。

******

 

孫が保育所から帰って、ロボットで遊び、

にぎやかな声を響かせました。

夕飯は、ポカリスエットゼリー。

 

12時を過ぎても 全然眠くないというので、

一晩中 とりとめのない話。

「寒くないの?」・・「寒くない 暑いくらい」

「眠くないの?」・・「眠たくない おまえは寝ろよ」

「しんどくないの?」・・「全然しんどくない、大丈夫」

「ポカリ飲む?」・・「うん、ひとくち」

 

午前6時頃

「寒くない?」・・「暑い 汗かいてる」

「お布団、薄いのに換えるわ」・・「うん、ちょっとスマホ取って~」

「はい、スマホね~」

・・・

「お布団、換えるよ・・・」・・「・・・」

「お父さん・・」・・「・・・」

・・・ 夫の 骨だけになった顔を眺めました。

(今 なんだ・・・)

スマホを膝に乗せて、深く深く眠っていました。

息はありましたが、

隣に住む息子やお嫁さん、孫が呼びかけても反応はありません。

救急車で医療センターへ運ばれ、

待ち受けてくれていた主治医のもと、

午前8時過ぎ 息を引き取りました。

 

スマホで何を見たかったのでしょう。

夫はまぶたを閉じただけかもしれない。

『フッ』と不覚にも眠ってしまって、

『あれれ~~?』と思ってるかも、

なんてね。

そんなに急がなくても良かったのに

ドジやね。

 

 

 

 

 

 

 

 


成人T細胞白血病リンパ腫の夫・・家へ

2025-03-09 11:21:51 | 日記

お正月休みが明けて、

静かだった医療センターも 平常の診療が始まった。

夫は 

リハビリの先生に 楽な呼吸の仕方や 体の起こし方など

熱心に指導してもらっていた。

そして

<1月14日の午後14時に医療センターを出発して家へ帰る。

翌1月15日の午後14時に自宅を出発して病院へ帰って来る。>

という目標ができた。

 

*******

 

1月6日 

医療センターの地域連携室のSさんが担当者として、

挨拶にきてくれた。

夫が家に帰るためには、

病室から家までどのように連れて帰るか。

酸素吸入、ベッドや、トイレなど 

どうするのか。

もし、病状に変化があったらどうする・・。

どうするのだろう??? 

不安な私に 

Sさんは、まず介護保険の申請手続きをしてくるように指示した。

ケアマネージャーさんや、介護業者さんなど、

Sさんにすべてお任せした。

 

1月7日

私は 市役所で介護保険の申請手続きをすませた。

介護度の認定には 主治医の診断や 本人への聞き取り調査が必要。

聞き取り調査から 認定の結果が出るまでには 1ヶ月以上かかるとのことだった。

翌日、聞き取り調査はすんだ。

平行して

地域連携室のSさん、夫の担当看護師さん、

訪問看護ステーションの看護師さん2人、

介護事業所のケアマネージャーさんと、介護士さん、

そして 私で 会議。

夫の病状説明から始まって、

病室から家まで、家の中の環境整備、訪問看護、介護計画、

細かく計画が立てられた。

介護保険の認定結果はまだ出ていないが、前倒しで利用していくとのこと。

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1月14日 

午前9時・・・ 介護ベッドの組み立て、ポータブルトイレ設置。

午前11時・・・ 酸素吸入のための酸素発生器の設置。

      午前中には 夫を迎える準備ができた。

午後14時 家では 訪問看護ステーションの看護師さん2人が夫の到着を待ち受けてくれていた。

     病室には 民間救急の救命士の方2人が夫を迎えに来てくれた。

     ベッドから 寝たままで 酸素吸入をしながら、

     ストレッチャーで民間救急車に乗り、家へ。

     狭い玄関も難なく 2人で夫をベッドまで運んでくれる。

     待ち受けていた看護師さん達にバトンタッチ。

午後15時 夫の状態を確認して、看護師さん達も帰る。

     看護ステーションは、24時間対応で、

     「少しの変化でも気になったら、いつでも、

     夜中でも躊躇せずに電話して」、との言葉のおかげで大きな不安が消えた。  

     介護事業所の介護士さんの丁寧な説明も 私の不安を吹き飛ばしてくれた。

 

こうして 夫は57日ぶりに我が家へ帰って来た・・・😊

 

******* 

 

夫に 「しんどくなかった?」と聞くと、

「全くしんどくなかった。」という。

コロナの流行期に、民間の救急車が大活躍したと、TV報道で見たことがあった。

自分が利用するとは予期していなかったけれど、

救命士の方々の動き、

患者にだけではない患者家族に対する言葉掛けまで、

心のこもった仕事ぶりに驚いた。

夫も安心して帰って来れたようだった。

 

夫は 落ち着いていて、病院で居る時よりも楽そうにしていた。

孫に クリスマスプレゼントに贈っていた 変形ロボットのおもちゃが 

「硬くて変形させにくい!」と、聞いていた夫は、

孫が保育所から帰ってくるまでにと

ベッドの上で ロボットの修理を始めたのだ。

 

ベッドの上の夫は、 体重わずか45㎏。 

骨と皮。

のどを通るのは、ポカリスエットやカロリーメイトなどのゼリー状のものだけ。

水さえも飲み込めなくなっていた。

 

 

 

 


成人T細胞白血病リンパ腫・・家へ帰れるの?

2025-03-08 10:14:13 | 日記

夫の主治医が着ている ポケモンのドクターウェア

小児科ではないけれど

茶髪の小柄な先生によく似合う。

『今日は 紺色のピカチュウだったね』

『今日は フシギダネだった』

『今日は 洗濯してるのかポケモンじゃなかったね』

・・・主治医先生のポケモン達のウエアに 随分癒やされました・・・

クリスマスの病室

コンビニのイチゴショートケーキ

1個 食べられました

「メリークリスマス!!」

ベッドの上でクリスマスパーティー

 

*******

 

主治医:

「年末年始に 家に帰れないのは残念ですが、

年が明けたら、様子を見て1度家へ帰ってみますか?

一泊だけですが お試しで帰りますか?

うまくいけば、自宅療養の方向に向けて調整しますか?」

私:

「酸素吸入しながら帰れますか?

車椅子に座ることも出来ないのに 大丈夫ですか?

可能なら ぜひ帰らせてやって下さい!!」

 

*********

 

12月18日に HCUから一般病棟へ戻ってからは

水分補給の点滴もなくなり、

主治医から 

「水分も食事も 自力で

口から摂れる物を頑張って摂って下さい。

何でも食べたいもの飲みたいものなんでも!」

という指示。

この頃には 主治医は

家へ帰れる準備を考えてくれていたのかもしれない

と、思う。

もう、夫に残された時間は

とても少ないことがわかっていたのでしょう。

 

朝はヨーグルト1個

10時に分子標的薬2錠を服用

面会時間が始まる15時に

私がサンドウィッチや、あんパンなど

食べられそうなものを聞いて持参

頑張って ほんの一切れか二切れを食べる。

夕方17時過ぎに

又、なんとか入りそうな物を口に入れる。

どんどん食べられなくなって、

毎日毎日 体重が減っていった。

75㎏あった体重が 50㎏になった。

ベッドの上に身を起こすのも

電動ベッドのリモコン操作なしでは出来なくなって、

一人で立つことは出来なくなっていた。

こんな状態で

ホントに家へ帰ることは出来るのだろうか・・・???

********

 

年が明けて

私は今の医療機関、看護師さんだけでなく患者家族と各所を連携してくれる方、

介護に携わる関係の方々に、

大きな驚きと、深い深い感謝を抱くことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


成人T細胞白血病リンパ腫の夫・・10月から12月

2025-03-05 15:52:58 | 日記

2024年10月、夫は

外来で抗がん剤の点滴治療を受けつつ、

食事もまあまあ普通に食べられて

あまり いつもと変わりなく日常を過ごせていた。

お天気が良ければ 私の運転で南の海岸線を眺めに出かけたり

別の日には 山奥の道の駅へ 柿や栗を買いに行ったり。

孫達と ピクニックやバーベキュー。

その合間に 友達や バイト先の同僚の方、

ボランティア活動仲間へと 別れの挨拶に出かけた。

『元気な姿だけ覚えておいて欲しい

今までありがとう・・・

亡くなっても知らせないので・・』と。

こんなに元気なのに

ホントにこの人は死ぬのだろうか?

不思議だった。

 

11月に入ってから

一気に病状は進んだ

医大病院の医師も、医療センターの主治医も

説明してくれたように

「この病気はすごいスピードが速いです。

今日は良くても明日の事はわかりませんよ。

悪くなるときはあっという間に悪くなります。」

お医者さんって凄いなあと

妙に感心した。

言ったように進んでいくなあ と。

 

療養中に 夫が食べたいと言ったもの

丸亀製麺のうどん コンビニのサンドウィッチ

焼き肉 焼き鳥 ピザ モスバーガー コンビニのおにぎり

からあげクン ファミチキ たこ焼き あんパン

コンビニのいなり寿司

パイナップルの缶詰 などなど

抗がん剤の副作用か 

濃い味付けでないと

家庭料理では 味がわからないようだった。

ほんの少しずつしか 入らなかったけど

 

11月末から HCU(高度治療室)に移されて

ガスマスクのような酸素吸入器を装着していて、

ますます食べられなくなった。

食事は病院食ではなく

家から何でも持って来て

食べられるものを食べて下さいとのことで、

何か作ってこようか?と聞いても

???

私の手料理が食べたくはないのか??

(心でつぶやきつつ)

コンビニ通い。

ミニあんパンが一番食べやすそうで、

小さなパックの牛乳とで 命をつないでいた。

「まるで 張り込みの刑事みたいやな」と

主治医や看護師さん達に言われながら・・・

 

「会わせたい人には会わせて、24時間いつでも面会していいです」

という危篤状態の中、

12月 分子標的薬による内服治療が始まった。

分子標的薬2錠を 掌にのせて拝むように 大事に大事に 飲んだ。

 

12月18日 HCUから出ることができた。

 

12月 クリスマス

病室でコンビニのイチゴケーキを二人で食べた。

相変わらず ピカチュウのドクターウェアに身を包んで、

主治医が病室のドアを開けて言う。

 

「年が明けたら 1度家へ帰ってみますか?」

「1日だけ、試しに帰ってみて

うまくいくようなら、在宅で療養をしていきますか?」

・・・・・

 

 

 

 


高額療養費制度に感謝

2025-02-26 16:55:38 | 日記

最近、TVや新聞でよく目にし、

国会でも問題になっている高額療養費制度。

 

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高額療養費制度とは、

同じ月の1日~末日、1ヶ月の 

病院などでの窓口負担が自己負担限度額を超えたときに、

その超えた金額が公的医療保険から支給される制度です。

(自己負担限度額は、70歳未満か70歳以上か、や所得等によって異なります。

「差額ベッド代」や「入院時の食事代の一部負担」、などは対象外です。)

世帯合算できる場合もあります。

また、同一世帯で直近12ヶ月に3回以上高額療養費が支給されていると、

4回目以降の自己負担限度額が軽減される仕組みもあります。

 

**********

 

夫が

市立医療センターに飛び込んで診療を受けたのが 2024年8月21日。

即日入院で 10日間入院

8月30日退院。

9月初旬は外来で、PET(陽電子放出断層撮影)検査はじめ

さまざまな検査。

病名が確定し、骨髄移植可能な医大付属病院へ紹介される。

9月13日~10月1日まで 医大付属病院へ転院して1回目の抗がん剤治療で、19日間入院。

骨髄移植はしないと決めた。

完治の可能性はないというけれど、

少しの寿命を延ばせるなら・・と、抗がん剤治療を受けることを選択。

抗がん剤治療の2回目からは、

もとの医療センターへもどって、外来で受診。

11月初めに風邪から肺炎になり、

11月~12月~1月15日まで、67日間入院。

入院日数 合計96日間。

高額療養費制度を適用されて、

医療機関と調剤薬局に支払ったぶんだけで医療費は約76万円。

これには差額ベッド代(約26万円)も含まれています。

個室に入らなければ、約50万円の負担です。

まだこれから後に、限度額を超えた分の数万円の返金があるようです。

 

最初にマイナンバーの保険証で受診しておくと、

特別な手続きなく高額療養費制度が適用されます。

入院料の請求書、医療明細を見て、

これだけの医療費で

とんでもない高額の治療を受けられているのだと、

夫と驚きました。

「日本に生まれて幸せやなあ・・」

「お金持ちでもない普通のわれわれが、これだけの治療を受けられるなんてなあ・・」

12月に入ってから

『分子標的薬』という1錠薬価が12000円ほどもする薬を

毎日 1日1回2錠 服用しました。

効き目はあったのか、がんの検査の値は下がっていました。

12月は弱りながらも落ち着いていました。

 

毎朝10時にその2錠の薬を掌にのせて

夫は、

「有り難いなあ・・命の綱やなあ。」

「大事な薬やなあ・・」

毎日 

とても感謝しつつ服用していました。

完治する見込みのない自分が、

わずかな寿命を延ばすために

こんな高額の薬を飲んで良いのか、

若い現役世代の人が服用するのは当然としても、

高齢の自分が

無駄に医療費を遣っているのだと

申し訳なさを感じていたのだと思います。

骨髄移植はしないと決めた時に、

抗がん剤治療もすべて拒否するという選択もありました。

もし、なにもせずにいたら、

たぶん夫は、秋の紅葉も見ることは叶わなかったでしょう。

 

決して年金が多いわけでもない、

年金生活者の私達夫婦が

あまり迷うことなく抗がん剤治療を選択できたのは、

なんと言っても高額療養費制度のおかげです。

すべて自費での治療なら、諦めざるを得ません。

完治はしないと宣告されても、

やはりその後の4ヶ月の日々は私達にとって貴重な時間でした。

 

高額療養費制度、色々な意見があるようですが

今回私はその恩恵を受けられ、

本当に感謝し有り難く思っています。

現役世代の方々に負担を強いるだけの制度でなく、

なんとか維持できないか

知恵を絞っていただきたい・・・

私の知恵では ・・・(涙)(涙)