成人T細胞白血病リンパ腫・・家へ帰れるの?

2025-03-08 10:14:13 | 日記

夫の主治医が着ている ポケモンのドクターウェア

小児科ではないけれど

茶髪の小柄な先生によく似合う。

『今日は 紺色のピカチュウだったね』

『今日は フシギダネだった』

『今日は 洗濯してるのかポケモンじゃなかったね』

・・・主治医先生のポケモン達のウエアに 随分癒やされました・・・

クリスマスの病室

コンビニのイチゴショートケーキ

1個 食べられました

「メリークリスマス!!」

ベッドの上でクリスマスパーティー

 

*******

 

主治医:

「年末年始に 家に帰れないのは残念ですが、

年が明けたら、様子を見て1度家へ帰ってみますか?

一泊だけですが お試しで帰りますか?

うまくいけば、自宅療養の方向に向けて調整しますか?」

私:

「酸素吸入しながら帰れますか?

車椅子に座ることも出来ないのに 大丈夫ですか?

可能なら ぜひ帰らせてやって下さい!!」

 

*********

 

12月18日に HCUから一般病棟へ戻ってからは

水分補給の点滴もなくなり、

主治医から 

「水分も食事も 自力で

口から摂れる物を頑張って摂って下さい。

何でも食べたいもの飲みたいものなんでも!」

という指示。

この頃には 主治医は

家へ帰れる準備を考えてくれていたのかもしれない

と、思う。

もう、夫に残された時間は

とても少ないことがわかっていたのでしょう。

 

朝はヨーグルト1個

10時に分子標的薬2錠を服用

面会時間が始まる15時に

私がサンドウィッチや、あんパンなど

食べられそうなものを聞いて持参

頑張って ほんの一切れか二切れを食べる。

夕方17時過ぎに

又、なんとか入りそうな物を口に入れる。

どんどん食べられなくなって、

毎日毎日 体重が減っていった。

75㎏あった体重が 50㎏になった。

ベッドの上に身を起こすのも

電動ベッドのリモコン操作なしでは出来なくなって、

一人で立つことは出来なくなっていた。

こんな状態で

ホントに家へ帰ることは出来るのだろうか・・・???

********

 

年が明けて

私は今の医療機関、看護師さんだけでなく患者家族と各所を連携してくれる方、

介護に携わる関係の方々に、

大きな驚きと、深い深い感謝を抱くことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


成人T細胞白血病リンパ腫の夫・・10月から12月

2025-03-05 15:52:58 | 日記

2024年10月、夫は

外来で抗がん剤の点滴治療を受けつつ、

食事もまあまあ普通に食べられて

あまり いつもと変わりなく日常を過ごせていた。

お天気が良ければ 私の運転で南の海岸線を眺めに出かけたり

別の日には 山奥の道の駅へ 柿や栗を買いに行ったり。

孫達と ピクニックやバーベキュー。

その合間に 友達や バイト先の同僚の方、

ボランティア活動仲間へと 別れの挨拶に出かけた。

『元気な姿だけ覚えておいて欲しい

今までありがとう・・・

亡くなっても知らせないので・・』と。

こんなに元気なのに

ホントにこの人は死ぬのだろうか?

不思議だった。

 

11月に入ってから

一気に病状は進んだ

医大病院の医師も、医療センターの主治医も

説明してくれたように

「この病気はすごいスピードが速いです。

今日は良くても明日の事はわかりませんよ。

悪くなるときはあっという間に悪くなります。」

お医者さんって凄いなあと

妙に感心した。

言ったように進んでいくなあ と。

 

療養中に 夫が食べたいと言ったもの

丸亀製麺のうどん コンビニのサンドウィッチ

焼き肉 焼き鳥 ピザ モスバーガー コンビニのおにぎり

からあげクン ファミチキ たこ焼き あんパン

コンビニのいなり寿司

パイナップルの缶詰 などなど

抗がん剤の副作用か 

濃い味付けでないと

家庭料理では 味がわからないようだった。

ほんの少しずつしか 入らなかったけど

 

11月末から HCU(高度治療室)に移されて

ガスマスクのような酸素吸入器を装着していて、

ますます食べられなくなった。

食事は病院食ではなく

家から何でも持って来て

食べられるものを食べて下さいとのことで、

何か作ってこようか?と聞いても

???

私の手料理が食べたくはないのか??

(心でつぶやきつつ)

コンビニ通い。

ミニあんパンが一番食べやすそうで、

小さなパックの牛乳とで 命をつないでいた。

「まるで 張り込みの刑事みたいやな」と

主治医や看護師さん達に言われながら・・・

 

「会わせたい人には会わせて、24時間いつでも面会していいです」

という危篤状態の中、

12月 分子標的薬による内服治療が始まった。

分子標的薬2錠を 掌にのせて拝むように 大事に大事に 飲んだ。

 

12月18日 HCUから出ることができた。

 

12月 クリスマス

病室でコンビニのイチゴケーキを二人で食べた。

相変わらず ピカチュウのドクターウェアに身を包んで、

主治医が病室のドアを開けて言う。

 

「年が明けたら 1度家へ帰ってみますか?」

「1日だけ、試しに帰ってみて

うまくいくようなら、在宅で療養をしていきますか?」

・・・・・

 

 

 

 


高額療養費制度に感謝

2025-02-26 16:55:38 | 日記

最近、TVや新聞でよく目にし、

国会でも問題になっている高額療養費制度。

 

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高額療養費制度とは、

同じ月の1日~末日、1ヶ月の 

病院などでの窓口負担が自己負担限度額を超えたときに、

その超えた金額が公的医療保険から支給される制度です。

(自己負担限度額は、70歳未満か70歳以上か、や所得等によって異なります。

「差額ベッド代」や「入院時の食事代の一部負担」、などは対象外です。)

世帯合算できる場合もあります。

また、同一世帯で直近12ヶ月に3回以上高額療養費が支給されていると、

4回目以降の自己負担限度額が軽減される仕組みもあります。

 

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夫が

市立医療センターに飛び込んで診療を受けたのが 2024年8月21日。

即日入院で 10日間入院

8月30日退院。

9月初旬は外来で、PET(陽電子放出断層撮影)検査はじめ

さまざまな検査。

病名が確定し、骨髄移植可能な医大付属病院へ紹介される。

9月13日~10月1日まで 医大付属病院へ転院して1回目の抗がん剤治療で、19日間入院。

骨髄移植はしないと決めた。

完治の可能性はないというけれど、

少しの寿命を延ばせるなら・・と、抗がん剤治療を受けることを選択。

抗がん剤治療の2回目からは、

もとの医療センターへもどって、外来で受診。

11月初めに風邪から肺炎になり、

11月~12月~1月15日まで、67日間入院。

入院日数 合計96日間。

高額療養費制度を適用されて、

医療機関と調剤薬局に支払ったぶんだけで医療費は約76万円。

これには差額ベッド代(約26万円)も含まれています。

個室に入らなければ、約50万円の負担です。

まだこれから後に、限度額を超えた分の数万円の返金があるようです。

 

最初にマイナンバーの保険証で受診しておくと、

特別な手続きなく高額療養費制度が適用されます。

入院料の請求書、医療明細を見て、

これだけの医療費で

とんでもない高額の治療を受けられているのだと、

夫と驚きました。

「日本に生まれて幸せやなあ・・」

「お金持ちでもない普通のわれわれが、これだけの治療を受けられるなんてなあ・・」

12月に入ってから

『分子標的薬』という1錠薬価が12000円ほどもする薬を

毎日 1日1回2錠 服用しました。

効き目はあったのか、がんの検査の値は下がっていました。

12月は弱りながらも落ち着いていました。

 

毎朝10時にその2錠の薬を掌にのせて

夫は、

「有り難いなあ・・命の綱やなあ。」

「大事な薬やなあ・・」

毎日 

とても感謝しつつ服用していました。

完治する見込みのない自分が、

わずかな寿命を延ばすために

こんな高額の薬を飲んで良いのか、

若い現役世代の人が服用するのは当然としても、

高齢の自分が

無駄に医療費を遣っているのだと

申し訳なさを感じていたのだと思います。

骨髄移植はしないと決めた時に、

抗がん剤治療もすべて拒否するという選択もありました。

もし、なにもせずにいたら、

たぶん夫は、秋の紅葉も見ることは叶わなかったでしょう。

 

決して年金が多いわけでもない、

年金生活者の私達夫婦が

あまり迷うことなく抗がん剤治療を選択できたのは、

なんと言っても高額療養費制度のおかげです。

すべて自費での治療なら、諦めざるを得ません。

完治はしないと宣告されても、

やはりその後の4ヶ月の日々は私達にとって貴重な時間でした。

 

高額療養費制度、色々な意見があるようですが

今回私はその恩恵を受けられ、

本当に感謝し有り難く思っています。

現役世代の方々に負担を強いるだけの制度でなく、

なんとか維持できないか

知恵を絞っていただきたい・・・

私の知恵では ・・・(涙)(涙)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


成人T細胞白血病リンパ腫の夫

2025-02-22 20:53:47 | 日記

人間って、死ぬんだな・・・

・・・

 

 

「あ~~! もう、うるさーい!!」

いちいち、いちゃもん付けて、

なんでもっと可愛いことを言わないの?

あなたの思うとおりに物事が進まなくても

いい歳になってるんだから、

もう少し穏やかな『おっさん』になれませんか?

って、

 

会社員時代 部下に言ったように、

(本人は気付いていないみたいだけど)

上から目線のセリフは

やめませんか。

って、

 

私は、心の中でよくつぶやいていました。

 

腹立たしかった事柄が、

かえって愛おしい。

もう声を聞きたくても聞けない。

ホントに

亡くなってしまったんですね

きっと もう少し

生きていたかったよね

 

 

夫は

8月お盆の15日に、「しんどい」と言ってから、

わずか5ヶ月で逝ってしまいました。

 

「成人T細胞白血病リンパ腫」

病名を確定された時から、

カレンダーと競争するように日々を過ごしました。

あっという間のことで、

まだ夢の中にいるよう

 

「ただいま」

と帰ることは もう ない

 

忘れっぽい私なので、忘れてしまわないうちに

病状や経過を記録しておこうと

何度もパソコンに向かいながら、

手が動かなかった。

 

来週 四十九日。

この5ヶ月を

やっぱり

残しておこう

 

少しずつでも

 

 

 

 

 

 

 


Yさんの静かな旅立ち

2025-01-12 17:23:01 | 日記

Yさんの幸せな時間が

もう少し長く続くようにと

祈っていましたが

2024年12月半ばに

Yさんは 静かに旅立ちました。

 

すい臓がんのステージⅣとわかって

1年9ヶ月でした。

 

Yさんの旅立ちの2ヶ月前

高齢者住宅に入所中のお姑さんが

夜中、居室内で転倒して突然亡くなりました。

お姑さんの葬儀後しばらくの間

農家の繁忙期も重なり、

Yさんは 緩和ケア入院をしました。

 

日々弱っていく中

農作業後、毎日ご主人は面会に訪れていました。

「帰りたい、帰りたい・・・」

「あと二週間?、あと一週間?」

お姑さんの四十九日の法事のあと、

Yさんは、やっと我が家へ帰って来ました。

 

家の玄関に入ったと同時に

Yさんの意識はなくなりました。

訪問看護師さん、往診の主治医から

「会わせたい人には連絡を・・・」

 

ご主人、近所の長女家族が呼びかけても

反応はありません。

関東に住む末っ子家族も呼び

子供や孫達みんなが、Yさんの眠るベッドのそばで、

しゃべり、食べ、眠り、笑い、泣きました。

帰って来て3日後に

一瞬、みんながベッドのそばを離れた時に、

Yさんは呼吸を止めました。

 

みんなの声の響く中

Yさんの旅立ちは幸せだったと言えますよね。

 

ご主人を愛し、緩和ケアの病室で

「パパ大好き、ありがとう・・」

と、何度も言っていたYさん。

 

でも、

ご主人曰く。

しんどくなって、苦しくて、

最後に出るのは、

「お父ちゃん、お母ちゃん、助けて~!!」

という言葉だったとか。

 

今頃は、

お父ちゃんお母ちゃんの腕の中に 抱かれてる?