お墓が盗まれた?

2024-08-08 12:16:55 | 介護

 

十数年前のある日

 

義父:「K子さん、ちょっと」(手招きしながら、小さな声で)

   「お隣のTさんが、

    うちのブロック(塀)を壊して、花壇にしてるんや。

    うちのブロックが盗まれてる・・・」

 

驚いて お隣を見に出てみると、

Tさんがブロックを台にして プランターに可愛い花を植えて並べています。

もちろん我が家のブロック塀は健在です。

 

・・・始まったな 、と思いました。

それまでも ちょっと「??」と思うときはあったものの、

まあまあ (もう85歳)歳は歳だし、

認知症の症状がでても不思議じゃない。

 

ここは、否定せず 

女優になったつもりで

 

私:(ささやくように) 

  「おじいちゃん、ここは事を荒立てずにおきましょう。

   お隣と もう長いお付き合いやし、

   まだこれからもお付き合いをせんといかんから、

   ブロックの一つや二つ、安い物やし、

   私 ホームセンターで買って修理しておきますね。

   これは、私たちだけの胸に納めておきましょう。

   ・・ね。内緒ですよ。」

義父:「そうやな 頼むで」

 

とりあえず 一件落着!

 

その後も、ガレージの作業用のジャンパーが盗まれたり、

うちの墓が盗まれたり。

ちょっと笑うような事件はありましたが、

徘徊をするわけではなく、

おとなしい

私たちにとっては認知症といっても

穏やかで 有難かった。

 

亡くなる前2ヶ月間は市内の病院で入院。

食事の介助に毎日通いましたが、

長男の嫁が来ているとは思っていなくて、

家政婦さんかヘルパーさんだと思っているようでした。

「いつも ありがとうございます。ご迷惑をおかけします。」

と、丁寧に挨拶をしてくれます。

病院の献立によく出ていた佃煮。

私は、義父の好物だと思っていたので、せっせと義父の口に運んでいました。

「もう充分に頂きました。満腹です。ありがとうございます。」

 

義父の死後、

夫からその佃煮は義父は嫌いだった、と聞いて。

えっ 何だって!!!

「きらい」とは言えず、気を遣ってくれたんやなあ。

 

几帳面で、真面目で、人に迷惑を掛けたくない、

という気性は認知症でも変わりませんでした。

 

義父と、

良い思い出ばかりではないけど

認知症の症状が出てきてからの方が 好きだったな。

 

もうすぐお盆

お墓、盗まれてないかしら~??

 

 

 

 

 

 


父が施設に入るときに

2024-07-07 13:00:53 | 介護

7日の毎日新聞 「滝野隆治の掃苔記」欄

母が施設に入るときに

と題して 

ご自身のお母様の施設入所までのご様子を綴られています。

そして、最後に

『親が施設に入るとき、みなさんは何を思いましたか。安心ですか。後悔ですか。

それとも・・・・。体験談を聞きたいです。』と。

 

私の実家の両親は、それぞれ2年間ほど

実家から車で10分の老人保健施設でお世話になり、

最後の看取りまでして頂きました。

 

父は85歳頃までは一人で

近所のかかりつけの内科医院にも通院できていました。

ある日

医院からの帰り道で道が解らなくなった

と、道ばたで座り込んでいたのを

孫が見つけて連れて帰ってきました。

主治医のすすめで

認知症の詳しい検査を受け、

アルツハイマー型認知症が判明しました。

 

母と二人で小さな店を営んでいましたが、

ほとんど母が切り盛りしていましたので、

私達姉妹も父の認知症がそれほどに進んでいるとは

実感していませんでした。

 

少し徘徊の症状が出てきはじめた頃、

母が骨折して救急車で緊急入院。

私達姉妹は

父の症状に直面することになりました。

 

90年近くも暮らした家の中を見回して、

「ここは どこや?」

姉と顔を見合わせて呆然としました。

「ちょっとここで待っててね。」

と言っても、5分が待てずに外へ出ていこうとする。

(母が居ないことが不安だったのかもしれません。)

実家は 30秒で堤防まで行けるような港のすぐそば。

ふらふら歩けば 簡単に海に転落です。

 

ラッキーだったのは

丁度その1ヶ月前に介護の手続きを始めていて、

ケアマネージャーさんと知り合いになっていたので、

すぐ連絡を取りました。

2日後には

空いている施設に一時入所でき、

1ヶ月後にはその後お世話になった老健施設に転所しました。

入所後は穏やかに暮らし、

面会の度に

職員さんを信頼しているのもわかったので、

安心感は大きかった。

 

私達は三人姉妹で、

姉と私は長男へ嫁ぎ、

義両親と同居生活中でした。

妹が実家で同じ敷地内に住んでくれていましたが、

妹夫婦は共稼ぎで、昼間は留守。

父の施設入所は、

私達にとって

他の選択はありませんでした。

『女の子が3人も居て、

誰にも介護してもらえないのか?』

心の中で

『ごめんね』

『冷たい娘やね。』

正直

父が亡くなるまで

私の中では、

大切に育ててもらったのに、

看てあげられなくて ごめん・・、

心が重くてたまらない日もありました。

 

でも

あれから父を見送り

母を見送る過程で、

私達姉妹は介護で揉めたり

喧嘩をしたり関係が悪くなるということなく

今日まで来れています。

姉妹仲良くは両親が一番望むことだと

思うので、

施設で二人とも

お世話になったことを

後悔することはありません。

両親に

穏やかな日々を送らせてくれた施設の方々、

そして

穏やかに過ごしてくれた両親に

ただ 感謝あるのみです。

 

その家その家で、

みんな違う事情があるでしょう。

親の介護が原因で兄弟姉妹の仲が悪くなった

ということはよく耳にします。

そうなるのは親も望みはしないと思うのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


母の月命日

2024-05-26 15:16:50 | 介護

実母が亡くなって1年半、今日は月命日です。

実家の父は9年前に、亡くなりました。

実父母は二人とも、亡くなる前には認知症になり、

それぞれ2年ほど施設のお世話になりました。

父はアルツハイマー型認知症で、

父の場合は、子供たちのことも、妻である母のことも忘れていきました。

母を連れて週2回洗濯物を交換に行き、父の顔を見てくるのが1年続いたある日。

父が母の顔をみて、「おまえは誰だ?」と言いました。

母が凍り付いたのを感じました・・・

結婚して60年、自営で小さな店を2人で続けてきました。

認知症だと解っていてもつらかったでしょう。

今でもその時のことを思い出すと胸が痛みます。

それまでに、私たち娘のことは解らなくなっていましたが。

ただ、近しい関係の人ではあることは理解していて、

行けばとても嬉しそうな笑顔を見せてくれました。

面会を終えて帰ろうとする私達を、廊下の角で見送り手を振ってくれました。

父が亡くなる最後まで唯一覚えていたのは、自分の名前だけでした。

父が段々と忘れていくのを感じるのはつらかったけれど、

施設の廊下でベンチに並んで座る時、私はいつも癒やされていました。

全く悪意のない、欲もない、優しい存在。

・・・母の月命日に父のことばかり思い出します。

母にとても優しかった父に、

認知症になる前に、感謝の気持ちを伝えたこと、なかったなあ。

「お父ちゃん、ありがとうね」


植木鉢のかげに隠れて・・

2024-05-24 12:55:07 | 介護

庭の植木鉢の後ろに隠れて咲いていました。

葉っぱだけなら、いつもは抜いてしまうんですが、

可愛すぎたので撮影をしました。

3年前に減築して、

今までの半分の広さの住まいにリフォームしました。

その際に庭も、自分の力で手入れできるだけの広さにしました。

畳2枚ほどの花壇と、植木鉢30個あまり。

これ以上は増やさないでおこうと決めています。

元の庭は義父がずっと手入れをして、

大きな木も沢山植えていました。

義父は85歳頃までは、まだ高い木にはしごをかけて

剪定も自分でしていました。

でも、心筋梗塞や脳梗塞、入退院の繰り返し、

そして認知症。

義母も夫も庭には興味がない人で、

植木屋さんに頼むほどの高級な植木もないので、

いつしか庭の手入れは私の役目になっていました。

リフォームの時に、これからの自分の体力と相談して、

9割の木を処分しました。

義父の庭にあったギボウシ、ツワブキ、テッセン、オモト、

千両、万両、紫蘭、シンビジウム、などなど。

大きな木の足下に植わっていたものが、

今、

私の小さな庭を賑やかに飾ってくれています。

 

長い同居生活ですから、親との意見の食い違いや

世代間ギャップはどうしようもなく、

大喧嘩とまではいかなくても

嫌な雰囲気になることも1回や2回ではありませんでした。

義父が亡くなってちょうど10年、

庭の手入れをしながら

時々義父とやり合ったプチ喧嘩など思い出します。