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作法と慣習と習慣と機能

2015年09月13日 20時23分12秒 | 枕電子計算機
▽箸の持ち方が正しくない。

いわゆる「ばってん箸」と言われるような、箸と箸が交差してしまう持ち方だ。

幼いころに親の注意を嫌がるんでなくちゃんと聞いていればよかったなぁ、と思う。

食べることに特別な支障はない。

豆などの小さいものも挟めるし、かぼちゃなどの大きいサイズのものは切れる(ものによって割く、割る等言い方は異なるが動作は基本同じだろう)。

口元に運べるし、白ご飯に海苔を乗っけて巻けるし、卵を混ぜることもできる。

たしかに取りこぼすこともあるけれども、支障、とまではいかないだろう。

食べ物を口に入れることに関しては問題はない。

食べ物を口に入れることをすなわち「食事」と言わないところが文化というものらしく、

食事にはその食べ方に美しさも求められるのである。

そもそも「箸」という食器の存在がもう上品さを出すためにあるような気さえする。



▽ヒトが知恵をつける前は手を使って食べていた。

それだと手が汚れるから、一部の文化として道具を使って食べるようになった。

串のような刺すものであったり、スプーンのようなすくうもの、ナイフのような切るものの登場だ。

それが現在のフォークになり、スプーンになり、ナイフになったものと思われる。

手掴みからいきなり箸には行かないだろう。いくらなんでも。

さて、それらの「刺すもの」「掬うもの」「切るもの」等、食べるものによって数種類の道具を使い分けることが苦にならなかったのが欧米中心の文化であり、

いちいち使い分けるのが煩わしかったのかそれらの機能の大部分を補う「箸」を登場させたのがアジアの文化だろう。

そう考えると「箸」という食器は口元に運ぶ道具の中でもかなり進んだ形態と言えるかもしれない。

箸を使うアジアの中でも日本はさらに特殊である。

中国や韓国では「匙(レンゲも含む)」を頻繁に使うが、日本料理に匙がつくのは茶碗蒸しくらいのものじゃなかろうか。

味噌汁のようなものを食べるときでさえ箸だ。

おそらく多くの国は大スプーンかレンゲを使う。

スープは器自体を口元に持って行って飲む。

小鉢を手に持って食べるのは日本くらいのものだそうである。

口自体を食べ物に近づけるのは「犬食い」と嫌う。

「中国・韓国人は食べるお行儀が悪い」と言ったりする。

このあたりからだいぶ食べ物を採ることに関する美意識が生まれてくる。


▽話は変わるが中学校の時の英語の授業で「味噌汁」は「Miso soup」と訳されることを知った。

確かに汁は英語でスープになるのかもしれないが

味噌汁はスープじゃないと思う。

日本人がスープと呼ぶような汁物があるなら匙を使うはずである。

味噌汁を知らない英語圏の人が「Miso soup」と聞けば、あんなにたくさんの具がごろごろ入っている料理なんてイメージできないだろう。

多分味噌をお湯で溶かしただけのものを想像するのではないだろうか。

そもそも味噌自体を知らないから、「Misoという食べ物を煮込むかすりつぶすか絞ったりしてできたちょっととろみのある汁」を思い浮かべることと思う。

箸を使っている以上、あれはスープではなく「○○汁」なのだ。

そばやうどんみたいに、料理名全てを訳さなければならなかった食べ物だろう。

ちなみに豚汁は「Miso soup with pork and vegetables」、

けんちん汁は「Kenchinjiru(もしくはJapanese tofu and vegetable chowder)」。

英語圏の人間がけんちん汁を知ったころには「汁」と「soup」が別物であるらしいと翻訳者も気づいたのかもしれない。




▽閑話休題。先ほど箸を「かなり進んだ形態」と書いた。

一度「最終形態」と書いてから考えが変わり、書きなおした。

なぜか。

人類はさらに「先割れスプーン(spork)」という道具を生み出していたのを思い出したからだ。

給食にカレーが出てきたときに使っていたあれだ。

先端はフォークの様に割れているので刺すことができ、

湾曲しているが平べったいので切ることもでき、

そして、箸との一番の違い、汁ものをすくうことができるのである。

箸やフォーク、ナイフなどは力加減が難しかったりする。

先割れスプーンは握る事さえできれば基本的に誰でも扱うことのできる食器である。

口元に運ぶ食器の中ではこれぞまさに最終形態というべきだろう。

これに勝るものはこの先出てこないと断言してもいい気がする。

(もしそんな食器が生まれたら僕はそれに敬意を払って「究極形態」とか「Ultimate form」という称号を与えるつもりである。

(アニメとか漫画でよくやってるあのパターン。あれズルいと思う。)

そんな多機能な先割れスプーンであるが、今のような先割れスプーンが出てきたのは1990年代と、かなり最近の出来事である。

そのころにはテーブルマナーも出来上がり、

「美しく食べる」ことが教養の一つの様にもなってしまっていて、一般的に使われることは無いようである。

弁当なんかには食器を減らすためにも多機能な先割れスプーンが便利なのだが。

能力はあるのに使ってもらえない、かわいそうな感じがしてくる。


▽先の言を使えば、「誰でも使える」というのは道具に於いての最終目的だろう。

ただ、そうなってしまうと多分宇宙食のようなチューブを使うのが最も進んでいるとも考えられなくもない。

しかしはたしてそれが食事だろうか。

食感はほぼすべてゼリーくらいの柔らかさか液体となったものしかない。

食事とは食感や風味その他もろもろも合わせて食事というであろうので、チューブは栄養摂取にはきわめて進んだ道具だが、それを使った栄養補給は食事とは言えないのではなかろうか。



▽箸使いに自信のない自分の話に戻す。

箸の持ち方が汚い人間が鉛筆なら正しくもてるというわけがない。

中指で筆記具の下を支えて親指と人差し指で固定する、というのが本来。

自分は薬指で下を支え、中指人差し指親指で固定。

人差し指のところに中指まで添えちゃった、みたいな。

しかも変に手首をひねっている。

小中学校の頃は筆記具に指二本分の力がかかるので

ノートにしっかり鉛筆の跡が残った。

消しゴムで消しても消えない。

字もきったない黒ずんだノートだった。



▽字をきれいにするためには書き順を正しく書けばいいらしい。

しかし習慣をおいそれと変えることはできず、

字が汚いと自覚し始めた時には書き順通りに書いた方がもっと汚くなるという有様だった。

今は多少マシになっている。

一字一字単体で見ると結構バランスが悪いが、中心軸を意識し始めたので、読みやすくするコツを掴んだ感じだ。

だから一番汚く見えるのは四文字だけの自分の名前だったりする。

ま、読めればいいじゃん。

書き順が間違っててもたいした問題じゃない。

書き上がった文字が読めさえすればよかろう、なのだ。

「左」と「右」という字の一画目をどちらとも横棒からにしてものバランスのいい字は書こうと思えば書ける。

もちろんバランスのいい字が書きやすいのは書き順通りに書いたものであるというのは前提にある。

しかし、必須条件というわけでもないだろう。

社会に出ても書き順を気にしなければいけないのは書家や教員ぐらいのものだと思う。

ではなぜ、学校で正しい書き順を教えるかといえば、

どんな暮らしをするにしても字を書くことからは逃れられないからで、

字が汚くて損をすることが少なくても字がきれいで得をすることは結構あるからかな、と考えている。

字をきれいに書くには正しい書き順を覚えた方が我流よりずっと楽だからだろう。


それに子どもの将来の可能性というのはニートになるものから宇宙飛行士になるものまで幅広い。

クラスの中には教員になる子が何人かいるのだろう。

書家になる子もいないとは言えない。

それこそ無限の可能性である。

やっぱり書き順教育は必要だよな、と思う。



▽けど左利きの俺から言わしてもらえば漢字ってすごい書きづらいからね。

書き順通りに書いてもバランスをとるのは右で書くよりだいぶ難しいと思う。

書道なんてもう、拷問よ。


▽僕が教師になることへの弊害に箸・鉛筆の持ち方と書き順への苦手意識は間違いなく、ある。

それが弊害の全てというわけではないが。

むしろ不安要素のひとつ、と言った方が的確なのかもしれない。


やっぱり書き順教育は必要だよな、と思う。(二回目)

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1 コメント

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Unknown (いーちゃん)
2015-09-30 23:57:33
スガキヤスプーンという、先割れスプーンの進化系…ひたすら使いにくいよ!
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