あなたの夢の中で

2ちゃんねるを見ていて目に止まった書き込みを収集しています。

ブギーポップ・スタッカート ジンクス・ショップへようこそ(抜粋)

2009年09月15日 21時11分47秒 | 未来と闘え

 紀美香が茫然としていると、影は何の感情もない言葉で静かに言った。
「どうやら――君はもう世界の敵ではなくなったようだ。後は勝手にするがいい。――もっとも」
 向こうに歩いていく影は、彼女の方を振り向きもしない。その彼女は、形相が一変していた。その髪の毛は、一本残らず真っ白になっていて、ぱらぱらと抜け落ち始めていた。そこにあった力が根こそぎなくなってしまったことは明白だった。今や――彼女に残っているものは、自分の行為がもたらした、隠しようもなく目の前に迫ってくる現実だけだった。
「君に、そこから動けるだけの未来が残っていれば、の話だが――」


上遠野浩平『ブギーポップ・スタッカート ジンクス・ショップへようこそ』、株式会社メディアワークス《電撃文庫》、2003年3月25日初版、263、264頁(一部省略)

備前の部落民衆の身分闘争(抜粋)

2009年04月28日 20時15分24秒 | 未来と闘え

…問題は、備前の民衆が「御国」と「御他領」の違いを強調し、他領の民衆が、同じ筆法で「東国ニハ江戸・尾張・伊勢、西国ニハ備前・備中・豊後」「是等之国ハ御高所持不仕」と述べていることである。自分の国の民衆の「御百姓」性を主張するため、他国の民衆を「」ときめつけている。これが、多くの領主に分断統治された幕藩制下の民衆の意識の限界であった。…


柴田一 「備前の民衆の身分闘争」『角川日本地名大辞典 33 岡山県』 角川書店、1990年8月25日

海辺のカフカ (上)(抜粋)

2009年03月06日 18時00分00秒 | 未来と闘え

「僕はごらんのとおりの人間だから、これまでいろんなところで、いろんな意味で差別を受けてきた」と大島さんは言う。「差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う〈うつろな人間たち〉だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚なわらくずで埋めてふさいでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。つまり早い話、さっきの二人組のような人間のことだよ」
 彼はため息をついて、指の中で長い鉛筆をまわす。
「ゲイだろうが、レズビアンだろうが、ストレートだろうが、フェミニストだろうが、ファシストの豚だろうが、コミュニストだろうが、ハレ・クリシュナだろうが、そんなことはべつにどうだっていい。どんな旗を掲げていようが、僕はまったくかまいはしない。僕が我慢できないのはそういううつろな連中,,,,,,なんだ。そういう人々を前にすると、僕は我慢できなくなってしまう。ついつい余計なことを口にしてしまう。さっきの場合だって適当に受け流して、あしらっておけばよかったんだ。あるいは佐伯さんを呼んできて、まかせてしまえばよかったんだ。彼女ならうまくにこやかに対処してくれる。ところが僕にはそれができない。言わなくてもいいことを言ってしまうし、やらなくてもいいことをやってしまう。自分が抑えきれない。それが僕の弱点なんだ。どうしてそれが弱点になるのかわかるかい?」
「想像力の足りない人をいちいち真剣に相手にしていたら、身体がいくつあっても足りない、ということ?」と僕は言う。
「そのとおり」と大島さんは言う。そして鉛筆の消しゴムの部分で軽くこめかみを押さえる。「実にそういうことだ。でもね、田村カフカくん、これだけは覚えておいたほうがいい。結局のところ、佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪さんだつされた理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか――もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。僕としては、その手のものにここ,,には入ってきてもらいたくない」
 大島さんは鉛筆の先で書架を指す。もちろん彼は図書館ぜんたいのことを言っているのだ。
「僕はそういうものを適当に笑い飛ばしてやりすごしてしまうことができない」


村上春樹 『海辺うみべのカフカ (上)』、株式会社新潮社、2002年9月10日、312-314頁

ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編(抜粋)

2009年02月06日 18時00分00秒 | 未来と闘え

「下品な島のさるの話を知ってますか?」と僕は綿谷ノボルに向かって言った。
 綿谷ノボルは興味なさそうに首を振った。「知らないね」
「どこかずっと遠くに、下品な島があるんです。名前はありません。名前をつけるほどの島でもないからです。とても下品なかたちをした下品な島です。そこには下品なかたちをした椰子やしの木がはえています。そしてその椰子の木は下品なにおいのする椰子の実をつけるんです。でもそこには下品な猿が住んでいて、その下品な匂いのする椰子の実を好んでたべます。そして下品なくそをするんです。その糞は地面に落ちて、下品な土壌どじょうを育て、その土壌に生えた下品な椰子の木をもっと下品にするんです。そういう循環なんですね」
 僕はコーヒーの残りを飲んだ。
「僕はあなたを見ていて、その下品な島の話をふと思いだしたんです」と僕は綿谷ノボルに言った。「僕の言いたいのは、こういうことなんです。ある種の下品さは、ある種のよどみは、ある種の暗部は、それ自体の力で、それ自体のサイクルでどんどん増殖していく。そしてあるポイントを過ぎると、それを止めることは誰にもできなくなってしまう。たとえ当事者が止めたいと思ってもです,,,,,,,,,,,,,,,,,,
 綿谷ノボルの顔にはどのような表情も浮かんではいなかった。微笑みも消えていたし、苛立いらだちの影もなかった。まゆのあいだに小さなしわのようなものが一本見えるだけだった。そんな皺が前からそこにあったのかどうか、僕には思いだせなかった。
 僕は話をつづけた。「いいですか、僕はあなたが本当は,,,どういう人間かよく知っています。あなたは僕のことをゴミや石ころのようなものだと言う。そしてその気になれば僕のことをたたきつぶすくらい朝飯前だと思っている。でも物事はそれほど簡単ではない。僕はあなたにとっては、あなたの価値観から見れば、たしかにゴミや石ころのようなものかもしれない。でも僕はあなたが思っているほど愚かじゃない。僕はあなたのそのつるつるしたテレビ向き、世間向きの仮面の下にあるもののことを、よく知っている。そこにある秘密を知っている。クミコもそれを知っているし、僕もそれを知っている。その気になれば、僕はそれをあばくことができる。白日のもとにさらすこともできます。そうするには時間はかかるかもしれないけれど、僕にはそれができる。僕は詰まらない人間かもしれないが、少なくともサンドバッグじゃない。生きた人間です。叩かれれば叩きかえします。そのことはちゃんと覚えておいた方がいいですよ」


村上春樹 『ねじまきどりクロニクル 第2部 予言する鳥編』、新潮社《新潮文庫》、1997年、62-64頁

桃源郷の短期滞在客(抜粋)

2009年01月02日 18時00分00秒 | 未来と闘え

「…
…いま、その望みは、かなえられました。一生のうちで一度は経験したいと望んでいた最も幸福な時をすごすことができました。これからわたしは自分の仕事と小さな安貸間に戻って、向う一年間は満足な気持ちで暮します。わたしは、このことをあなたにお話したかったのですわ、ファーリントンさん。というのは、わたし――わたしは、あなたがわたしを嫌ってはいらっしゃらないと思ったし、それに、わたしは――わたしは、あなたをお慕いしていたからですわ。でも、ああ、いまのいままで、わたしは、あなたに嘘をついていなければなりませんでした。だって、何もかも、まるでおとぎ話のようだったのですもの。それで、ヨーロッパのことだの、本で読んだ外国のことなどをお話しては、自分が上流階級の貴婦人であるかのようにあなたに思わせていたのですわ。
…」


O・ヘンリ 「桃源郷の短期滞在客」『O・ヘンリ短編集 (一)』大久保康雄訳、新潮社《新潮文庫》、1976年15刷、168頁

バハムートラグーン33章

2008年12月05日 22時53分57秒 | 未来と闘え
457 :NAME OVER:2008/11/01(土) 22:05:00 ID:lM9TlMk3
うわぁ…
喪男ばかりかこのスレは
何年も離れてたのに戻ってきたらまだ相手はこっちが好きだった
ハイ、あなた達はこのストーカーに対してどうします?
今彼を見せ付けるしかないよね?


http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/retro/1218143995/
レトロゲーム

兵士の故郷(抜粋)

2008年09月09日 20時28分06秒 | 未来と闘え

 ベローの森、スワソン、シャンパーニュ地方、サン・ミーエル、アルゴーヌの山林地帯(訳注 いずれもフランス北東部の第一次世界大戦の戦場)などで戦ってきたクレブズは、最初、戦争の話をいっさいしたがらなかった。あとになって、話す必要を感じたが、だれも聞きたかがらなかった。町の人たちは、残虐な話をいやというほど聞かされていたので、実際の経験を話しても、すこしも心を動かさなくなっていた。耳を傾けて聞いてもらうためにはうそをつかなければならないことを知った。二度ばかりそんなつくり話をしてからは、クレブズ自身、戦争や戦争の話に反撥はんぱつを感じた。つくり話をやったために、戦争ちゅう彼の身に起ったすべてのことに嫌悪けんおを感じるようになった。それを思いだすたびに、心が清らかに、すがすがしくなる、いくつかの時期――たった一つのこと、やろうと思えば何か別のことができたかもしれないのに、男としてなすべきたった一つのことを、単純に、自然にやりとげた遠く過ぎ去った時期のすべてが、いまはそのすがすがしい貴重な性質をうしない、やがてひとりでに消えてしまったのだ。
 彼の嘘は、まったくとるにたらぬ嘘だった。ほかの兵隊の見たこと、したこと、聞いたことを自分の経験のように話したり、兵隊ならだれでも知っている出所不明のできごとを事実として話した程度だった。そんなつくり話も、玉突き場では全然興味をもたれなかった。
 偶然、実際に兵隊だっただれかと出会って、ダンス・パーティの化粧室などでニ、三分話をしているうちに、彼は若い兵隊のあいだにまじった古参兵の、あのいばりくさったポーズをとるようになった。戦時中は、いつもぞっとするほど嫌悪していたあのポーズだ。こんなふうにして彼は何もかもうしなってしまったのだ。


ヘミングウェイ 「兵士の故郷」『ヘミングウェイ短編集(一)』 大久保康雄訳、新潮社《新潮文庫》、1991年四十九刷、44-46頁(一部割愛)

カラマーゾフの兄弟(中)(抜粋)

2008年08月08日 21時31分48秒 | 未来と闘え

…ところが、アリョーシャとラキーチンが表階段をおりたとたん、ふいにグルーシェニカの寝室の窓がき、彼女がよく透る声でアリョーシャのうしろ姿に叫んだ。
「アリョーシャ、お兄さんのミーチェニカによろしくね。あたしはいけない女だけれど、恨みに思わないように言ってちょうだい。それから、あたしの言葉どおりにこう伝えて。『グルーシェニカは高潔なあなたじゃなく、卑劣な男のものになりました!』って。それと、もう一つ付け加えてちょうだい。グルーシェニカは人生のほんのいっときでも、ほんの一時だけお兄さんを好きになったことがあるの、それも、そのひとときをお兄さんが一生おぼえていてくれるくらい、愛したのよ。だから、グルーシェニカが一生忘れないでと言ったって、伝えてちょうだい!」
 彼女は嗚咽にみちた声で言い終えた。窓がばたんと閉められた。
「ふむ、ふむ!」笑いながら、ラキーチンがうそぶいた。「兄貴のミーチャにとどめの一太ひとたか。おまけに一生おぼえていろと命じたりしてさ。残酷なもんだ!」


ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(中)』原卓也訳、新潮社《新潮文庫》、1990年二十四刷、178、179頁

約束された場所で underground 2(抜粋)

2008年07月31日 01時17分15秒 | 未来と闘え

村上(村上春樹) 地下鉄サリン事件を始めとして、そういう社会的な犯罪事件を引き起こした体質を別にすれば、オウム真理教はそういう人たちの良き受け皿になっていたんじゃないかという意見もあります。実際に現在のオウム真理教は、犯罪的な部分を排除した純粋な宗教教団として活動していくというふうに言っています。それはどうなんでしょう。理屈としてはわかるけれど、そんなに簡単なことではないだろうという気もするんですが。
河合(河合隼雄) だからね、それ自体はいい入れ物なんです。でもやはり、いい入れ物のままでは終わらないんです。あれだけ純粋なものが内側にしっかり集まっていると、外側に殺してもいいようなものすごい悪い奴がいないと、うまくバランスが取れません。そうなると、外にうって出ないことには、中でものすごい喧嘩が起こって、内側から組織が崩壊するかもしれない。
村上 なるほど。ナチズムが戦争を起こさないわけにはいかなかったのと同じ原理ですね。膨らめば膨らむほど、中の集約点みたいなところで圧力が強くなって、それを外に向けて吐き出さないと、それ自体が爆発してしまう。
河合 そうです。どうしても外を攻撃することになってしまいます。ずっと麻原が言っていたでしょう、我々は攻撃されているって。それは常に外側に悪を置いておかないと、もたないからです。
村上 アメリカやらフリーメーソンやらの陰謀話が出てくるのもそのためですね。
河合 だからね、本物の組織というのは、悪を自分の中に抱えていないと駄目なんです、組織内に。これは家庭でもそうですよ。家でも、その家の中にある程度悪を抱えていないと駄目になります。そうしないと組織安泰のために、外に大きな悪を作るようになってしまいますからね。ヒットラーがやったのはまさにそれですよね。
村上 そうですね。


村上春樹『約束された場所で underground 2』、文芸春秋《文春文庫》、2001年第1刷、307、308頁

モルグ街の殺人(抜粋)

2008年07月23日 22時09分52秒 | 未来と闘え

 分析アナリシスの能力は、恐らく数学の研究によって、殊に数学最高の分野の研究(それが単に逆行的操作の故をもって特に解析学アナリシスと呼ばれているのは不当である)によって、大いに増進されるものであろう。しかし計算は必ずしも分析ではない。たとえばチェスのプレイヤーは、分析のため努力することはない。計算するだけだ。従って、チェスが知的能力の養成に役立つなどというのは大変な考え違いなのである。ぼくは今、論文を書いているのではない。いくらか風変りな物語の前置きとして、ゆきあたりばったりに所見を述べているだけだ。だから、ここでついでに言って置くけれども、思索的知性の高度な能力は、複雑で軽薄なチェスよりも、地味なチェッカーによって、遥かに多く養われるのである。チェスにおいては、駒の価値が様々に異なっていて、しかもそれが場合によって変化し、動きは多用で奇妙ビザールなため、単なる複雑さにすぎないものが(よくある誤解だ)深遠さと取られるのだ。ここでは注意力,,,が大きくものを言う。それが一瞬でもゆるむと、見落しをして、被害をこうむったり敗北したりすることになる。駒の動きとして可能なものが、単に数多くあるだけではなく、複雑を極めてもいるため、こういう見落しをする機会はますます多くなる。つまり十中八九までは、より明敏なプレイヤーがではなく、より注意力の強いプレイヤーが勝者となるのである。これに反してチェッカーでは、動き方は単一,,だし、変化もほとんどないため、見落しをする可能性は減少し、単なる注意力は比較的不要なものになる。より優れた鋭敏さ,,,によってしか、優勢を得ることができないのである。話をもうすこし具体的にするため、チェッカーのゲームを一つ想定してみよう。盤の上に成駒キングが四つだけになってしまったとする。こうなれば、もちろん見落しなどがあるはずがないから、勝負は(二人のプレイヤーがまったく互角だとすれば)ただ読みルシエルシェの作用によって、つまり知性の強さの結果によってのみ決定される。普通の手を打つ余地などまったくないのだから、分析的なプレイヤーは相手の心に没入して、彼と一体になる。このようにして、相手を落手に陥れたり誤算に導いたりする唯一絶対の手(ときとしては、それはまったく馬鹿ばかしいくらい単純な手なのだ)を一目で見抜く、などということもしょっちゅう生じるのである。
 ホイストはいわゆる計算力を養うと、昔からよく言われている。卓越した知性の持主で、軽薄だと言ってチェスは嫌うくせに、ホイストにはひどく熱中する人々がいるのである。たしかに遊び事のなかで、分析能力の訓練にこれほど役立つものはあるまい。キリスト教世界随一のチェスのプレイヤーと言っても、結局最優秀のチェス・プレイヤーに過ぎぬ。ところがホイストにおける熟達とは、頭脳と頭脳が闘いあうような、ホイストよりも重要なあらゆる仕事で成功できる能力を意味するのである。ぼくは今、熟達という言葉を使ったが、これは完璧の力倆を意味するのであって、これさえあれば、正当な優位を獲得し得るあらゆる,,,,筋が知覚できるのだ。こういう筋は単に数多くあるだけではなく、多様でもある。だから、尋常の理解力では到達できないような深い瞑想によって初めてそれを知り得ることが多いのである。さて、注意深く観察することは、はっきりと記憶することである。だから、その限りでは、注意力の集中に優れているチェスのプレイヤーは、ホイストにも極めて巧みだろう。そしてホイルの法則などというものは(ゲームのメカニズムに基づいているだけなのだから)、誰にもじゅうぶん理解できるものである。つまり、はっきりと記憶を持ち、「法則本」どおりにやるのが、世間で普通に考えられている名人というもののすべてなのだ。ところが分析家の力倆が発揮されるのは、単なる法則の限界を超えたところにおいてである。彼は黙々として、数多くの観察、数多くの推論をおこなう。もちろん、相手もおそらく観察し推理するだろう。それゆえ、結局のところ問題になるのは推論の妥当性ではなく、観察の質のほうなのだ。だから、必要なのは、何を,,観察すべきかという知識である。分析的なプレイヤーは、自分の思考をいささかも限定しない。また、ゲームが目的だからと言って、ゲーム以外のことに基づく演繹えんえきを避けることもしない。彼はパートナーの顔色を検討し、それを二人の敵の顔色と入念に比較する。彼はめいめいが手のなかのカードをどう分類するかに気をつける。そして、持っているカードに投げる持主の目つきから判断して切札や絵札の数を数えること位、しょっちゅうなのだ。彼はゲームの進行につれて、表情のあらゆる変化に注意し、確信、驚き、得意、無念というような表情の差から、思考のための手がかりを集めるのである。彼は、一回に出した札を集めるときのやり方から推して、その者がその組でもう一度やれるかどうかを判断する。彼はまた、卓の上にカードを投げる様子から、相手が実は何をたくらんでいるか見抜いてしまう。偶然に、あるいは不注意に、口にする言葉。ついうっかりと、落したり裏返したりしたカード。それを隠そうとするときの不安や無頓着。カードの数え方。それを配列する順序。当惑、躊躇、熱心、狼狽。これらすべては、一見しただけでは直感としか思われない彼の知覚に対し、事態の真相を告げることができるのだ。最初の一回ないし二回がすむと、彼はめいめいの手のうちのカードを知りつくしてしまい、それから以後は、正確にしかも絶対の自信をもってカードを出してゆく。まるで、ほかの三人がカードの表側を見せているみたいにして。


ポオ 「モルグ街の殺人」『ポオ全集第2巻』 丸谷才一訳、東京創元社、1979年十版、4-6頁

マンアフターマン―未来の人類学(抜粋)

2008年07月12日 20時27分02秒 | 未来と闘え

100万年後
戦う共生者
Moderator baiuli
ハンターとキャリアーの間のコミュニケーションは、単純化され、テレパシーで行う。体が大きくゆっくり動くツンドラ居住者は、弱いがひらめきの早いハンターによって、直接にコントロールされる。戦いは、もし発生したとしても、儀式的なものである。死ぬことはありえない。

戦う共生者イラスト


ドゥーガル・ディクソン 『マンアフターマン―未来の人類学』 城田安幸訳、太田出版、1993年
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