先日の心理テストの結果はいかがでしたか?
一番関心のある言葉が最後に残るというのは、考えてみれば不思議でもなんでもないことなんですが、いざ実際に残った言葉を目の前にするとなんだか面映い思いがします。
ちなみに僕の答えは“戦争”でした。(ありゃりゃ。。)
テストの種明かしを読んだときは正直マジかよと思いました。
自分の一番の関心事が“戦争”だっていうんですから、、、
自分は一体何を考えながら生きているんでしょうかね、、、暗いなー、まったく。
確かに最近、戦争に絡んだ映画や本をよく観たり読んだりしているような気がします。
ここ最近も、タルコフスキーの“僕の村は戦場だった”やポランスキーの“戦場のピアニスト”などを観ましたし、スピルバーグの“シンドラーのリスト”も久々に見直したりしました。
どれも、強く心に残る作品ばかりです。
しかし、これらの作品を観ていて感じることがあります。
第二次大戦中のナチスドイツの非人道的振る舞いを描いた映画や書物はすでに山のように存在します。
どれもそれなりに心に訴えるものがありますし、どの作品にも過ちを繰り返してはならないという強いメッセージが込められているように思います。
それはよくわかるのです。
しかし、なにかが足りないような気がしてなりません。
「A」というタイトルのドキュメンタリー映画があります。僕の好きな作品の一つです。
内容については詳しくは述べませんが、オウム真理教信者の日常の姿を教団内部から捉えた非常に興味深い映画です。
この映画を撮ったのは森達也というTV出身のドキュメンタリー作家です。
最近この森がポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡を訪れたときの興味深い話を耳にしました。
数々の目を覆いたくなる悲惨な展示を前にして、彼はある種の失望を禁じ得なかったというのです。
アウシュビッツで目にした多くの資料からは、ナチスがいかに非人間的な悪魔であったかという事実しか読み取れないというのです。アウシュビッツを訪れた人々はおそらくナチスに対する激しい憎悪を感じこそすれ、自らの中に潜む暴力性について思いを馳せることは絶対に出来ないであろうと彼は断言します。
アウシュビッツを訪れる善意の人々は心の底から迫害されたユダヤ人たちを哀れみ、ナチスを恨むでしょう。しかし、“善意”が新たなる“憎悪”と“暴力”を生むという可能性については彼らはどこまでも無関心なままなのです。
戦争終結直後のパリでは、開放された市民によるナチスの軍人達に対する凄惨なリンチが加えられました。それは一般市民の間に鬱積した憎悪が爆発し、正義の名のもとに新たな虐殺が生まれた瞬間でもありました。
僕達は、誰もがナチス的なものに靡く可能性を秘めているのだと思います。
当時、ヒトラーを熱狂的に支持したのはドイツの若者達でした。
第一次大戦で敗北し莫大な賠償金を背負わされたドイツは、1929年のニュ-ヨーク株価大暴落に端を発した世界恐慌の波に飲み込まれてゆきます。その結果ドイツ国内には実に600万人以上の失業者があふれかえることになります。
そして、ドイツ国民のすべてが自信と誇りを失っていたこのどん底の時代に、颯爽と登場したのがヒトラーだったのです。彼は、強いドイツの復活を訴えて、公共事業を押し進め、わずか2年の間に失業者数を50万人以下に押さえ込むことに成功します。
若者の目にはおそらくヒトラーがつよく逞しい、非常に頼りになる政治家に映ったことでしょう。
若者達を突き動かしたのは“ドイツの誇り”というロマンティシズムだったに違いありません。若者達の心の中にはおそらく一点の曇りもなかったでしょうし、まして悪意など存在する余地はなかったはずです。
ヒトラーを熱狂的に支持したのは全くの善意のドイツ市民だったのです。
人間はいかにして善意のうちに悪魔になりうるか?
この究極の問いが、今まさに僕たちのうえに重くのしかかってきているような気がします。
一番関心のある言葉が最後に残るというのは、考えてみれば不思議でもなんでもないことなんですが、いざ実際に残った言葉を目の前にするとなんだか面映い思いがします。
ちなみに僕の答えは“戦争”でした。(ありゃりゃ。。)
テストの種明かしを読んだときは正直マジかよと思いました。
自分の一番の関心事が“戦争”だっていうんですから、、、
自分は一体何を考えながら生きているんでしょうかね、、、暗いなー、まったく。
確かに最近、戦争に絡んだ映画や本をよく観たり読んだりしているような気がします。
ここ最近も、タルコフスキーの“僕の村は戦場だった”やポランスキーの“戦場のピアニスト”などを観ましたし、スピルバーグの“シンドラーのリスト”も久々に見直したりしました。
どれも、強く心に残る作品ばかりです。
しかし、これらの作品を観ていて感じることがあります。
第二次大戦中のナチスドイツの非人道的振る舞いを描いた映画や書物はすでに山のように存在します。
どれもそれなりに心に訴えるものがありますし、どの作品にも過ちを繰り返してはならないという強いメッセージが込められているように思います。
それはよくわかるのです。
しかし、なにかが足りないような気がしてなりません。
「A」というタイトルのドキュメンタリー映画があります。僕の好きな作品の一つです。
内容については詳しくは述べませんが、オウム真理教信者の日常の姿を教団内部から捉えた非常に興味深い映画です。
この映画を撮ったのは森達也というTV出身のドキュメンタリー作家です。
最近この森がポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡を訪れたときの興味深い話を耳にしました。
数々の目を覆いたくなる悲惨な展示を前にして、彼はある種の失望を禁じ得なかったというのです。
アウシュビッツで目にした多くの資料からは、ナチスがいかに非人間的な悪魔であったかという事実しか読み取れないというのです。アウシュビッツを訪れた人々はおそらくナチスに対する激しい憎悪を感じこそすれ、自らの中に潜む暴力性について思いを馳せることは絶対に出来ないであろうと彼は断言します。
アウシュビッツを訪れる善意の人々は心の底から迫害されたユダヤ人たちを哀れみ、ナチスを恨むでしょう。しかし、“善意”が新たなる“憎悪”と“暴力”を生むという可能性については彼らはどこまでも無関心なままなのです。
戦争終結直後のパリでは、開放された市民によるナチスの軍人達に対する凄惨なリンチが加えられました。それは一般市民の間に鬱積した憎悪が爆発し、正義の名のもとに新たな虐殺が生まれた瞬間でもありました。
僕達は、誰もがナチス的なものに靡く可能性を秘めているのだと思います。
当時、ヒトラーを熱狂的に支持したのはドイツの若者達でした。
第一次大戦で敗北し莫大な賠償金を背負わされたドイツは、1929年のニュ-ヨーク株価大暴落に端を発した世界恐慌の波に飲み込まれてゆきます。その結果ドイツ国内には実に600万人以上の失業者があふれかえることになります。
そして、ドイツ国民のすべてが自信と誇りを失っていたこのどん底の時代に、颯爽と登場したのがヒトラーだったのです。彼は、強いドイツの復活を訴えて、公共事業を押し進め、わずか2年の間に失業者数を50万人以下に押さえ込むことに成功します。
若者の目にはおそらくヒトラーがつよく逞しい、非常に頼りになる政治家に映ったことでしょう。
若者達を突き動かしたのは“ドイツの誇り”というロマンティシズムだったに違いありません。若者達の心の中にはおそらく一点の曇りもなかったでしょうし、まして悪意など存在する余地はなかったはずです。
ヒトラーを熱狂的に支持したのは全くの善意のドイツ市民だったのです。
人間はいかにして善意のうちに悪魔になりうるか?
この究極の問いが、今まさに僕たちのうえに重くのしかかってきているような気がします。
ようこそいらっしゃいました。コメントありがとうございます。
>>日本とアメリカを冷静に分析、、
そうですね。冷静かどうかは別として、アメリカにいるせいか、どうしても普段の生活のなかで日米を比較する機会が多くなってしまいますね。
アメリカにやってくる以前に持っていた漠然とした印象と現在のそれとでは随分と違ってきています。
今、世界の非難がブッシュ一人に向けられていますが、当然のことながら、アメリカの抱える問題はブッシュ一人に集約できるものではないのだという当たり前の事実を今更ながら実感しています。
まあ、このようなことも含めて、アメリカで感じたことなどをまた徒然なるままに書いていこうかなと思っています。
今後とも宜しくお願いします。
ワシントンDCで研究をされていらっしゃるそうですね。もう長いのでしょうか。
ワシントンへは7年ほど前に仕事で行ったことがあります。3月の終わりで桜やハナミズキの花がきれいだったことを記憶しています。
日本とアメリカを冷静に分析されていらっしゃると拝察致します。この記事を拝見して、戦争の泥沼から抜け出すには、いかに「憎しみの連鎖を断ち切る」かであり、そのことがどれだけ難しいかを再認識しました。
米国にによるアフガン、イラクの進攻は9.11の延長線上にあり、9.11もまた始まりではなく中東情勢の延長線上の出来事だと思います。もしアメリカがもっと自重して「憎しみの連鎖」を断ち切る勇気を示すことができれば、世界はもっと変わっていたかもしれません。
「戦争が遺したもの」にTBさせて頂きました。
今後ともよろしくお願い致します。
もし、自分が解放後のパリ市民と同じ立場だったら果たしてナチスの軍人達を赦したかどうか、、、などと考えると正直心許ない気持ちがします。
理性的に頭で理解していることが、本能的な怒りや、憎しみの衝動に打ち勝つことが出来るのかどうか、、、難しい問題だと思います。
しかし、こういったアンビバレントな感覚を意識することなしに、僕達が次なるステージに達することは出来ないのではないでしょうか?
いろいろな視点で物事を考えることは、そういう意味でも極めて大切なことであると思います。
大衆に訴えるものだからこそ、ステレオタイプじゃなくて、もっと深いものを訴えて欲しいなと思うんですよね・・・。
自分の中で身近な人に対して「この人が居なかったらな」って思うことや、人を無視したり、ちょっと意地悪を言ったり、一方的に批判したり・・・色々なことがあるけれど、そんな自分をよっこして、私たちは善か悪か他人事に対しては色々言ったりするんですよね・・・。自分だって、心の中で何人も抹殺していることはすっかり忘れて・・・・。