友人が働く病院で、味覚障害があるという女性事務がいるそうだ。普通に働きに来た。この時点で僕はため息だ。
「熱はないの〜、多分大丈夫」と。周りのスタッフは「大丈夫〜、無理しないでねえ」。それに応えて、当の女性「心配だから、中で仕事してます」。
って、家で様子見てなさいよ。仕事にきちゃダメでしょ。
僕の友人からの話である。ちなみにメールである。医療に携わっているにしても、この程度の意識だ。
自粛要請だといっても、スーパーには人だかり。ファーストレディは暇だからご旅行。「観光ではない。三密ではないから大丈夫」とそのご主人。繰り返すが、医療事務は不調を感じても勤務に励みます。これが我が日本である。
僕はこのような現象に日本人の規範意識があるのではないかと疑っている。新型コロナで諸外国も表現は違うが、「不要不急の外出の自粛=A」「三密は避けろ=B」「手を洗おう=C」「人のいないところで散歩はよし=D」「生活必需品の買い物は良い=E」程度で同様の対応がなされている。
諸外国では、罰金があったりとか、警察権力が指導に直接当たるとか、日本との違いはあるにしても、外出することはない。散歩している人はいるが、その時の規範意識のありようが違うと思う。
日本人は原理原則を立ち上げることができないのではないかと、僕は疑っている。例えば、上記A〜Eを例としてあげたが、Aを原理原則としてみよう。
そうすると、全てにおいてAが優先される。Eのスーパーでの買い物は「不要不急の外出の自粛」と矛盾する。しかしながら、産業社会の中で生きるためには、自ら生活物資を揃えることはできないから、このシステム上でやりくりするためには「生活必需品の買い物は良い」としかできない。そこでスーパーに行くのはいい。ただ、スーパに行くにしても、「不要不急の外出の自粛」を破ってしまうので、より「三密は避けろ」としなければならないし、そのためスーパーでも人と距離を取らなければならない。だから、スーパーの中でも、レジ前でも距離をとるし、スーパーに入っていい人数は制限する。よって、スーパーの外で並ぶが、その際も距離をとる。
まだ続けられるけれども、こうやってプロセスを考える中で、どのような行動をとるのかを決めることができる。通常はこのような論理を外部に出さなくとも、おおよそわかってしまう。このように規範の適応を決定して行く思考性をプロセス思考とでも名付ければいい。そのためには何が一番大切なのか原理原則が設定される。そこで、それぞれA〜Eの言説の関係を意識し、それらの関係性を構築しつつ、思考を具体化し、行動へと導く。
では日本人の場合はどうか。これらA〜Eの言説の関係性を導き出すことに不慣れなのである。そこでこれらの言説を横並びにして、どれか一つの言説を対象とする。
例えば、原則となる「不要不急の外出の自粛=A」を見て、この言説の論理の裏側、「不要不急なら外出してもいい」という背理(背理法ではない)を持ち出す。その際、他の言説との関係を考慮しない。少し脱線するが、そもそも「不要不急」とは何かが確定しないままでもある。そうすると外出していい理屈を探し出せばいいということになる。
「生活必需品の買い物は良い=E」は他の言説との関係を考慮する必要がないから、ただただ「買い物は良い」となる。このような思考を並列思考とでも名付けておこう。
そこでスーパーに行く。「買い物は良い」のでスーパーに行くのは良いことになる。ここの部分だけで思考と行動は閉塞してしまう。「買い物は良い」が「三密は避けろ=B」との関係性を考慮に入れないのだ。ある意味で、「良いこと」「許されること」を並列した言説の中から見つけ出せばいいだけになってしまう。プロセス思考が要求される時だが、それができないでいる。
その代表格がファーストレディの旦那さんである。首相が報道陣にこの問題を問われ、「観光ではなく」、「参拝だけ合流した」とか、「三密ではない」というのは、問題にはならないという理屈を取り出してきて、強弁しているだけである。ここにプロセス思考はない。「良い」とされる理屈を取り出しているだけであり、それらの言説をプロセス化して一つの論理を作るという思考性がないのである。
プロセス思考といってきたが、論理で考えられないということであり、都合のいいことをつまみ食いして、自己が正しいとでも主張しようとしているだけになってしまう。”政治家の親分”が原理原則もわからず、論理的に考察できないとは・・・・
同時に個人個人が最悪の事態を想定して行動する。そういう原則が他国にはあるが、我が国にはない。と付け加えておこうかと思う。