色々文献を読んだり、たまにネットで英語の論文を読んだりもする。ただ感染症の専門家ではないし、医療の専門家ではないので、不十分な理解にとどまっている。そのように自覚している。
そもそも誰も、新しいウィルスの全てを知る者などいないのだから、そういう限定の中で、できるだけ正しい理解に近づくようにするしかないわけだ。
それにしてもだ。結局収束とはなんだろうか?
ほとんどの人が新型コロナウィルスに感染して、免疫ができた状態を収束というなら、今行っている様々な対策が正しいのか疑問にさえなってしまう。だって、コロナに皆感染した方が収束が早いことになるのだから。おおよそ6割程度は感染することになるらしい。
イギリスのジョンソン首相が当初そのようなことを言っていたことはよく知られている。ただ医療体制を考えれば、現在の医療体制やあるいは少しばかり強化した医療体制で対応できる程度の患者数でなければならない。当然、医療体制を超えて感染者数が膨大になれば、死者数も増加するし、医療の負担が大きいだけではなく、医療者自体が死ぬ。ゆえに自粛でコントロールしようとしているのだろう。
こんなことを考えていたら、日本のスーパーに多くの人が詰めかけているのは、実はそれほど問題がないのかもしれないという理屈だって生まれるに違いない。感染者の適度の増加?
ちなみに僕はスーパーに行くたび「日本人って大丈夫だろうか?」と思う方だ。
多くの人が軽症で感染し、医療体制がそこそこ維持していければいいと考えれば、日本人の無防備とも言える中途半端な自粛がちょうどいいということにならないだろうか。なんだかおかしいが、そんな理屈が生み出されることもある。
でも、やっぱりおかしい。何がおかしいかというと、結局死者は出るので、できるだけ少なくなればいいと考えること自体がおかしいのである。
厚労省やテレビに出てくるような専門家の全てではないが、統計数値を見て解釈するという姿勢が通常モードだろう。人間を数値として見てしまえば、功利主義になる。死者が少ない方がいいに決まっているのだとなるのだが、たった1つの命も犠牲にしていい訳がない。死者数の目標を設定しているとは思いたくはないが、そんな計算をしでかす奴も出ないではない。頭のいい奴はそんな勘違いをしかねない。
この両者の間で、その矛盾の中何かを選択しなければならないとの苦渋がそこにあるはずだが、どうだろうか?
死者数が少ないのは「こちらの方法だ」と科学的には考えられるので、そこで感染症対策が決まるとすれば、何かが欠けている。その死者があなたの最愛の人であった場合、統計上の死者のうちの一人だと割り切れるはずもない。
集合としてみることと、かけがえのない人としてみること。これは矛盾である。このような矛盾は平時にもあるが、このようなコロナの“戦時”においては集合としてみることが全面に出るのではないだろうか。
だからと言って、何ができるというのか?まさに矛盾であることをいま自覚している。