平家物語から
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
さて、この文章の意味内容に思いをはせると、どんな意味が、文化が潜んでいるのあろう。日本の心、そういうことと重ねられるのだが。
この文化と現在の日本の文化の違いは大きすぎると思う。例えば、平気で勝ち組と負け組と人を分けてしまい、負け組を蔑むような現代日本の心情。僕は違和感を持っているのだが、若い人たちにはデフォルトになっているように思う。
人を2分して、その2分法をデフォルトにしてしまう。そのように人を二分法で分けてしまうことに対して、なんだか違和感や嫌悪感を抱いていたのではないか。そこに日本人の品性があったと思う。
平家物語を持ち出したのは、日本人の品が現れていると思うからだ。
もちろん平家物語は無常を表現している。栄華を極めた平家、奢れるものは久しからずで、落ちぶれる。今の言い方を当てはめると、平家は勝ち組から負け組になってしまう。そう塵のような存在なのだ。
そこで負けて「ざま見ろ」と日本人は思っていない。負け犬根性と見下すのではない。
栄華を極めた貴族が落ちぶれる。それは貴族という高貴なものも不幸が訪れる。当然栄華を誇るものもまた同様の思いをする、それが無常な世界。庶民もまた、その栄華と没落を見ていて、無常を共有する。
それだけではない。民衆だって同じではないか。自然災害、飢饉があれば、そうなる。無常なのは、日本人皆に共有する日本という地の存在。
だから負け組もまた共有する国民意識ではないか。この無情観を日本人は共有する。平家物語はその意味で日本人の心なのである。弱者へ思いを寄せる、そこが品性。
令和の日本には、この潜在的な文化意識が欠如していっている。