統一教会と自民党の癒着が安倍晋三殺害で浮き彫りになった。色々とメディアでも取り上げられた。でも、政治は何も変わらないのだろうか。それとも底辺で変化が起きていて、変化が始まっているのだろうか、なんだかわからない。
アドルノが『ミニマモラリア』で「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」と言った発言は、よく引用される。もちろん、アドルノは芸術の享受を否定したわけではない。アウシュビッツという事実を知った後では、知る前と同じような行動を取ることはできないと言ったのである。
以前のように芸術を味わったり作ったりはできなくて、どうしてもアウシュビッツが人間の意識や行動に語りかけてしまう。だからあたかも何もなかったかのようにしているわけにはいかない。そういうアフォリズムであり、その事実を意識した言葉である。だから価値ある言葉であるとなる。
確かにアウシュビッツという歴史的に最大の惨事であるが、何か出来事というものは、我々の意識に影響を与えてしまう。そういう意味だろう。アウシュビッツの後で、アウシュビッツの官舎においてモーツアルトの演奏会が開かれた。アドルノはそこにグロテスクな何かを見たのである。
芸術のある種の接し方とアウシュビッツの間になんだか共犯関係があると、そこに発見せざるを得なかった。しかし何事もなかったのかのように、そこは満員の聴衆が享受している。グロテスクであることが世界であるかのように語ってくるではないか。
そういえば、日本はもちろん当時のドイツと同様敗戦国であり、アウシュビッツをなかったかのように世界を享受するのと同様、日本でも何事もなかったかのように振る舞うということがあったのではないかと、ふと脳裏をかすめる。それについてはちゃんと考察をしなければならない。
現在の日本社会は色々劣化していると思う。しかし、それはなかったことにして人々は行動しているように見えるのは、僕の穿ったものの見方ゆえだろうか。統一教会と政治の、自民党の癒着は明らかになった。でも自民党も、政治も変わらない。統一教会の問題があらわになろうとも、安倍晋三が殺されようとも、その体制は変わらない。
これらの出来事の後で、何もなかったかのようにしていることは野蛮である。そんなことをふと思ったりした。