何だかネット界隈で「遅刻が・・」「能力ある・・」「価値が上がる・・」とか・・。ひろゆき氏の発言とのこと。
で、こんな記事。
芸人で、クイズで有名になったロザンの宇治原さんが「遅刻のメリット」を切り捨て、「遅刻論争 あかんに決まっとるやん」と。そこでは「議論にならないことを議論しているな」と的確に指摘している。「遅刻しない」とは、社会の常識であるから、その常識を崩したら、社会が成立しない方向に向かう。つまり非社会性の話である。
それは社会、つまり説明する必要のない人間関係の土台を構成している。少なくとも、そういう要素であるという話。もちろんある程度許容範囲があって、それはその都度確認し合えばいいことである。
さて、僕はこんな話に興味があるわけではないけれど、たまたま知人と話題になったので、次のように応えた。
「遅刻すること」と「能力がある」「価値が上がる」は交換可能な価値ではなく、別の価値である。おそらく「価値が上がる」という言説で表現されるのは、「能力がある」という言説で表される価値に繋がっている。例えば、「才能がある」「業績がある」「仕事ができる」という程度だろうか。
これらの諸価値は「遅刻すること」に関わる価値、例えば「遅刻しない人物なので信頼できる」「遅刻だけはしない人物」と水準の異なる価値だ。別の価値をあえて繋げて、同じ価値観に組み込むという間違いを犯している。あるいは「遅刻する」の上位に「価値がある」人間という属性を持ち出している。この場合「価値がある」というのは「仕事ができる」という程度の”イデオロギー”である。
異なる価値を接合して、ことなる価値に優劣をつけるのは実は権力行為である。文化の権力である。そういえば、カルチュラル・スタディーズである。実は価値として「仕事ができる」「業績がある」「才能がある」という現代社会にある人々が信じやすい価値を支持する立場である。であるから、「才能がない」を劣位にみるイデオロギーが内包されている。
そもそも「才能がない」「仕事ができない」って、なんだろう。人間に「価値がある」って。なんだろう。
何だか非社会的なものが見え隠れして、僕自身は何だかイヤな気分になる話題である。宇治原さんが真っ当でしょ!