道徳が虚構でしかないとすれば、我われは信じるべき規範や行動原理を想定する事ができなくなる。なぜなら、今道徳とされていることが非真理性を帯びていると自覚してしまったからだ。我われは信じるものを持たずに生きていかなければならない。この状況に僕たちは耐えられないのではないか。人によっては結局宗教に回帰したりする事になる。ニーチェからすれば、弱い人間の選択に他ならないだろう。
ちょうどこの認識はポストモダンの認識と重なっている。近代のプロジェクト、マルクス主義、大きな物語への信頼が喪失していくことを自覚したことを思い出す。いまだ科学に信頼を寄せる合理主義者もいるが、啓蒙が結局自覚しなければならなかった事は、合理化の果てに常に存在する非合理性であった。
真理もなく、真理を確定する権威さえおぼろげになってしまったわけだ。真理を確定する、あるいは人々が信じるべき道徳は神や理性が保証していたわけだが、いまや風前の灯火である。そのような時代認識において、我われは信じるべきものを見出せず、右往左往するしかないのだが。
ところが、ニーチェはこのような時代認識を共有しつつ、いや先鞭を付けたのだが、神の不在、真理の不在、あるいは道徳の虚構性こそが新たな人間の可能性であると宣言する。そう何も人間を制約するものがないからこそ、人間は自らの意志で自由に行動することが出来ると。これこそ真の自由、人間の可能性に他ならないと。
確かにニーチェの言葉は拝聴すべき価値がある。しかしそれにしても、さすが超人、強さが桁違いではないか。このような強力な人間観もまた超越性を抱えているとも思うのだが、我われは誰もがそんな強い人間として生きていくことが出来るのだろうか。
もう少し、僕のような弱い人間でも可能性のある生き方があるのではないかと思ったりもしている。人間の弱さを自覚する、不完全性を自覚するということもあるに違いない。
(つづく)