2024年に新1万円札の表紙に渋沢栄一がなる。「日本資本主義の父」と呼ばれるが、現状の日本の経済のあり方を方向づけたのだろうと偏見を抱いていた。
ところが実際の彼の経済思想は、そのバックボーンに論語があり、その理解のゆえに、現在の新自由主義的な経済、あるいは貨殖功利ではなく、まさに経世済民である。確かに貨殖功利を戒めている。
そこで彼の著作『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)から、現在の政治経済状況を批判するかのごとく、そういう言葉があるので、少し触れたい。
「就中日本の現状で私が最も遺憾に思うのは、官尊民卑の弁がまだやまぬことである」
この著作は1916年である。100年以上時間が経過しており、戦後民主主義などと喧伝されてきたが、100年以上前の時代と現代では、大して変わらないではないか。
官にあるものは不都合なことを働いても、大抵は看過され、民間のものは不都合なことを働けば、摘発され、憂き目に会わなければならない。
今なら官は政治家、民間はそのままであるが、結局のところ、偉い人の都合のいいように世間は動き、民間はそれに従うしかないという話である。それが官尊民卑である。
今では政治家の都合に振り回される官僚もいる。仮に“民尊”の官がいたとして、つまり全体の奉仕者であろうとすると、政治家の嘘を守らなければならないことさえある。
自殺した財務省近畿財務局の妻である赤城雅子さんが、森友学園決済文書改ざんをめぐる損害賠償を求めた裁判が、真相をやぶに葬るために「認諾」として終わらせたことについての言葉を引用したい。
「夫は国に殺されたと思っています。何度も何度も殺されて、きょうもまた殺されました」
人間が一度だけではなく「何度も何度も殺された」。
この本当の責任者が正しく罰せられなければ、日本に未来などない。「何度も何度も殺された」のだから、大正の渋沢の時代より、今の時代の方が酷い時代ではないか。
渋沢の言葉を引用しよう。
「正しきを曲げんとするもの、信ずるところを屈せしめんとする者あらば、断じてこれを争わねばならぬ」
「曲げるもの」「屈せしめんとするもの」が誰なのか、皆分かっている。