道徳の系譜をラフスケッチした。まず、欲望を叶えることからはじまり、その欲望を制限すること、それはまず共同性の只中で、次に国家を中心とした制度による欲望の制限、方向づけとなる。さらに近代化は欲望の無制限な充足を目指すように我われを方向付ける。だからこそ、欲望を制限することが道徳でもあった訳だから、道徳の質が近代において変化したのだ。確かに質は変化したが欲望を方向づけるという点で道徳を保持している。
よって近代も前近代も同様の質を有している。ニーチェはそこに強制の匂いを嗅ぎゆけ、その真理性に虚構を発見する。
我われは今道徳や真理が存在しないとして佇んでいる。そのため、何をすべきなのか、何を選択すべきなのかもわからない。だからといって、ニーチェの超人のように、完全なる自由を享受し、自らの意志で何をするのかを決めるほどの精神性を持ち合わせるわけではない。
この背理の中で生きているだけである。しかしながら、これはかなり理念的である。理屈としてはこの背理に呑み込まれているが、現実的にはこのような認識の中で生きている人間は稀少である。実際の我われは何がしか信じており、その信じたところから行為を紡ぎ出すことも事実である。実際には、先に触れたように、成功したいとか、金持ちになりたいとか、上昇志向を良しとするような行為にある。
このような価値志向もまた一種の道徳の現れとみなす他ない。それらの志向は社会システム、つまり資本主義であるとか、民主主義、科学信仰から生じる通俗化された大衆的道徳ではある。ぼく自身はこのような志向を真に道徳と考える訳にはいかないし、真理であるなどとも考えない。これらは結局のところ繰り返しにはなるが、ニーチェがいうように強制されていながら、強制されていることを隠蔽されている道徳ではある。
(つづく)