ずっと何か違和感を持っていた。その正体は何だろうと頭の中にいつもあった。
コロナだというのにスーパーで行列を作る人。緊急事態宣言下でも夜の街で遊んでいる人。普通に街中を歩いている人。病院で並んでいる人。品川駅の混雑・・・、あと政府や都知事。
こういう人たちに違和感を持っていた。コロナを気にすれば、も少し用心するはずだろうと。どうして用心するという感覚が生じないのだろうかと。
今日テレビを見ていたら、若者が「コロナにはならないと思いますよ〜」と軽口。まあいつの時代でも、若者にはそういう無謀さや無知がまとわりつくに違いない。
若者はさておき、彼らはコロナへの恐れがないのである。というよりは、森羅万象全てにおいて、畏れを失っているのではないか。ふとそんな思いが駆け巡った。
日本人にとって、畏れは日本文化の基底にある感情ではないだろうか。それは人間の力が及ばないものに対する畏怖の念、つまり慎みを作り出す力ではないだろうか。
慎むとは自分を抑えることであり、我を捨てる事、身を律する事である。ゆえに自己の欲望を抑え自己を律しようとする。
それが日本文化の基底にあって、そのような日本人のエトス(行動規範)を作り出し畏れとして日本人に現象化する。人間を超えた存在、人間の理解を超えたなにがしかへの感覚こそ日本人の文化の基底であるといえば、多少ロマンティックかなとも思う。ちなみにこれは宗教である。
ところが、彼らから慎みを感じないのだ。ゆえに畏れを失っている。日本人が持つ超越的存在への感覚が畏れであるから、すでにかつての日本人とは異なっている。
ちょっと断りを入れておこう。ちなみに日本人を畏れから位置付けるのには議論が必要だと思う。ここでは良い面だけを取り上げているが、畏れが日本文化の悪しき面を作ることもあろうかとも思う。
宮崎駿のアニメ、例えば「もののけ姫」はまさに自然が与える畏れの感覚を表現しているように思うが、エンターテイメント化されすぎて、そういう意味を表現できていないのかもしれない。あるいはこちらが理解する能力を欠いてしまったのだろうか。
もののけは自然に対する畏れの感情だ。コロナは人間の理解を超えていると考えれば、まさに自然。どうも我々は付け上がってしまったように思うのだ。