先日散歩がてら深大寺に行ってきた。散歩がてらといったが、散歩が目的であって、神社で何か願い事をしようと思ったわけではない。実は願い事自体が好きではない。五穀豊穣は理解できるが、自分の欲望達成のために願いごと、神社であれば、加持祈祷するなど、祈ることでもないと思っている。
しかしながら、人間にとって、祈りほど大切なことはない。
現在、僕たちが神社に行くのは、お願いをしに行くことに形骸化されているのではないかと思っている。祈ることが、何か社殿の前でブツブツいうことにでもなっているかのようだ。いい大学にいけますようにとか。
ついでにおみくじを買って、吉凶を占うなどは、単なる呪術であって、祈りではない。何か叶えたいなら、行動すればいいだけだ。もう単なるエンターテイメントになっているような気さえする。呪術も消費するわけだ。
神様とは、僕はなんだかわからないのだが、なんだか僕たち生きとし生けるものに、命を与えている存在に、僕たちがどうにか名前を与えて、とりあえず神様と読んでいるのだろうと思う。でも神様と命名すると、致命的な失敗をすることもあるので、聖書では「神の名前を呼んではいけない」という話が組み込まれているのだろう。そう考えている。
だから祈りとは、命を与えてくれるなんだかわからない存在に対して、僕たちが感謝することである。だから現世利益をお願いすることではない。
生きていること、嬉しいこと、悲しいこと、成功すること、失敗すること、そういうありとあらゆることは贈られている。そういう物事を全部受け取って、なんだかわからない贈り主に向かって感謝することが、つまり祈りである。別に神社ではなくとも、どこでもできる。それが祈りだ。それが制度化して、宗教になっていくのだろうが、制度化が凝り固まり過ぎではないかと感じている。
まあ満点の星空の下あたりが、祈るにはいいかな。ずいぶん恥ずかしいこと言ってるな、オレ!
妻は神社でなんだか祈っていた。僕が祈らないので、「なんでやらないの?」と聞いてくる。僕は妻が何を祈っているのか、想像できる。いや、知っている。あのなんだかわからない存在から僕に贈られた最大の贈り物はなんでしょうね!?
感謝。