最近SDGS(sustainable development goals)=持続可能な開発目標が宣伝されている。テレビを見ても、この言葉が使われ、これから我々が進むべき良き道という印象になっている。
貧困や飢餓の撲滅、男女平等、自然環境の持続可能な利用、持続可能な開発等々、色々言われている。僕はSDGSは今の所ちゃんと勉強していない。だから間違うかもしれない。まあそのうちちゃんと勉強しますよ。
ただ開発developmentを手放さないということは、結局自然破壊をするということでもある。もちろん人間は自然を利用しないと、生きていけない。だからしょうがないといえば、しょうがないが、自然にとって一番の厄介者は人間だろう。
ということで、人間がいなくなるのが自然にとって一番いいという結論になる。そもそも環境というが、対自存在であるから、人間と環境を切り離して考える思考には問題が生じるのは必然である。
たまたまミカンの木にミカンが生っていて、そのミカンを食べるが、このミカンは環境だろうか。このミカンが僕の身体になるのであるから、僕自身でもある。そのミカンが生るのは、木に養分や水分などが、ミカンの環境にあるからであるから、人間と環境に境界をつけることは出来ない。つまりミカンが私であるだけでなく、環境は私だ。それを環境と私を別もんに位置付け、暴走してきたのである。
とはいえ、人間が自然環境と共存というより融合する生き方を模索するということまで否定する気はない。日本なら里山にイメージできるような環境であり、人間が自然を手入れしていくような生き方である。少し前までできていたことだ。こういうことを知らしめることこそ、宗教の役割ではなかったかとも思う。
さて、僕たちは次のようなことを思いもしないのではないかと。人間自体が環境資源であると位置付け、人間を開発に利用することである。SDGSには「人間らしい」という考えが組み込まれているので、人間自体を資源とすることに批判が組み込まれているように思う。
ここまでSDGSの話をしてきたのは、ワクチンに関する僕の本当の政治的な態度を示すためである。
環境問題の最初といえば、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』である。DDTが土壌を汚染し、自然のサイクルの中で濃縮され、自然破壊が明確になった。人間にも被害が及んでしまった。水俣病も同様だ。化学物質が環境に流れ、食物連鎖の中で濃縮される。その濃縮された化学物質を人間が身体に取り込んでしまう。
化学物質を環境に流す。環境破壊である。もちろんその事実は広がり、人に悪影響がないように抑制がはかられ、色々工夫がなされる。しかし問題が全くなくなったとはいえない。
では、人間身体を自然とした場合、人間身体という自然にワクチンという化学物質を組み込むことは、DDTや水俣病、それ以外の自然破壊によって生じたような問題を起こさないのだろうか。つまりワクチンは人間身体の自然を破壊する側面がないのだろうか。確かに短期的にはコロナに対して効果はあるのだろう。
では長期的にはどうかとか、ほかの側面から見たらどうなるのだろうか。そんな疑問が生じる。
現在の医療には総じてこういう側面はないだろうか。医療こそが人間の自然を壊していると。あまりに性急ではないか、そう思わないだろうか。畏れを持たないのだろうか。
僕は進歩を信じる気になれない。それでもしょうがない場合ワクチンは打つ。
ワクチンがコロナ下での、自然との融合、人間の手入れであるか、逡巡してしまう。