安倍晋三殺害に簡して、色々考える事もあるが、まず簡単にこのブログに書いておく。
僕はこういう事、安倍晋三がテロに遭うことを想定していた。というのは、日本が”劣化”している原因に、安倍晋三という存在を想定する人間が少なからずいると考えていたからだ。社会で蔑ろにされている人間は、その元凶を求める。
安倍さんの政治的な姿勢に大きな疑問を持つ者は当然いる。経済的に窮地に堕ちいる原因がアベノミクスを中心とした経済政策であり、その歪みが格差として現象化しているのと考える層は必ずいる。僕自身そう考えている。
そういう存在が凶行を働くというのは人間社会では、これまでの歴史でもあったのだから。それにしても、警備がおろそかではとも感じる。
その上で、テロは許されない。言論を暴力で封殺してはいけない。だから、許される行為ではない。
そもそも言論の自由には次のような機能がある。政治的社会的経済的に不満分子が社会の中にいる。そういう存在は、暴力に訴える可能性を持つ。しかしながら、自由な言論で批判するという行為は、暴力の前にあるわけだから、暴力を留める機能を持つ。さらに社会の中で溜まっている不満を理解する機会にさえなる。
だからこそ言論の自由は民主主義の最大のリスクヘッジなのである。
今回小沢一郎の発言がどうも問題になっているようだ。
このように空気を読んで、安倍晋三批判につながるような言説を回避しようとする行為は、言論の自由に反する。当然死を悼むが、功罪をきちんと言論で表さなければ、何が民主主義で、この日本社会で問題なのかから目をそらすことを必然化してしまう。
日本ではその文化として、死者になれば神様になってしまう。どんな悪人も死が悪事をチャラにしてしまうようだ。どうもそういう文化である。これが日本に言論で考えること、民主主義を根付かせない原因である。
自分が行ってきたことが悪いことであった場合、死んでしまっては、悪いことだと自覚する機会を失い、なおかつ反省する機会を失い、贖罪の機会を失う。それは「よく生きる」事の機会を失うことである。
であるから、殺人は許されない。彼女/彼が「よく生きる」ためには、生きていなければならない。ゆえに殺人は許されない。
だから色々な疑惑を明確にして、少なくとも司法で明らかにしていくという手続きを期待していた。ここで疑惑を数え上げる事はしないが、どれほど問題のある人物であったか。
そんなことを考えたりしたが、まだまだあるがこの辺で、とりあえず。
安倍さんのご冥福を祈ります。