Drマサ非公認ブログ

西部邁への違和感

 以前西部邁著『保守の真髄』(講談社2017)を取り上げてブログに書いた。

 まだまだ勉強になったことは多々あるのだが、いくつかある違和感の中で、今回1つ取り上げたいと思う。

 「戦さにあってこそ人々のあいだの感情が激しく燃え上がり、人々の記憶が鮮やかに蘇る」と記され、祖国防衛の戦争がそれに当たるとの趣旨になっている。人生の最大限綱領は死を覚悟し、人生を賭する行為を行う事。

 西部先生は本当は戦争をしたかったのではないだろうか。そして、そこで死にたかったのではないかと。そんな解釈が勝手に僕の中で生じてしまった。

 さらに以前、宿命が努力しても思う通りにならない悲哀を伴うとの考えをこのブログでも取り上げたが、西部先生は思い通りの人生ではなく、体も不自由となり、自死を選んだことに悲哀を感じていたのではないだろうか。今の日本の現状を絶望し、自らの人生に悲哀を感じ、自ら死を選ぶ。そういうことだったのだろうか。

 これは僕の行き過ぎた解釈に過ぎないのだが、戦争での自らの奢侈や焼尽を求めていたとすれば、思い出すのはバタイユ的な哲学である。さらにより直裁的なのがカイヨワである。

 カイヨワは『戦争論』の「内的体験としての戦争」で「聖なるもの」という考えを提示する。宗教的体験に近いように思われるが、いわゆる宗教が提示する神聖さとは異なり、恐れを誘うようなもの、それでいて魅了される超越的体験である。自己の喪失になるかもしれないが、それこそが生命の、世界の源であるので、それを体験したいという人間の原理であるという。

 その「聖なるもの」の基本的性格を戦争は持っている。さらに「聖なるもの」は集合的沸騰をもたらすので、戦争のような国民全体が集結する出来事であれば、一国全体の団結と超越をもたらす。

 そのため第二次世界大戦の日本の戦争にそのような影を見、かつての日本を肯定する論理を見出すのではないかと想像してしまう。これは近代化、合理的世界の否定としても現れる。繰り返すが、あくまで僕の妄想である。

 カイヨワの師匠筋のバタイユは「聖なるもの」を甦らせるために、サクリファイス(供儀)を企てていたとの話も残っている。

 例えば1980年代の消費文化論とは、このような「聖なるもの」や集合的沸騰の小さな出来事を消費に求めていた。カイヨワ自身も戦争の「聖なるもの」的な性格を見ていたが、同時に全面戦争や核戦争を視野に入れた場合、戦争が国民とか国家という枠組みで収まらない以上、つまり戦争の根本的形式が変化した以上、国家と「聖なるもの」を結びつける思想から後退した。

 僕が西部先生に違和感を感じるのは、戦争肯定の理由をどうしても見出せないからだろうか。まだまだ青い議論なので、これからもどこか頭の片隅にそんなことを考えていこうと思う。

 戦争で国が1つになるのだろうかとも思うのだ。そんなことはあったのだろうかとも。

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