ここでやっと靖国神社について考えてみよう。
靖国神社はよく知られる通り、江戸末期と明治維新の頃、主に戊辰戦争の戦没者の慰霊のため作られた招魂社が元で、国家のために殉難した英霊を祀るための施設である。
江戸時代前からあった日本古来の考えが元になって靖国神社はあると、考える人も多いようだ。ただ社会学者の橋爪大三郎によれば、英霊という概念自体が明治の近代化において作られた概念であるという。国家のために死ぬという考えは近代以前にはなかったという。これについてはYoutubeの映像を貼っておこう。
橋爪大三郎氏 「靖国神社の”英霊”概念は本来の神道ではない」
https://www.youtube.com/watch?v=Bl8alrNoByY
西欧においても、国家のために命をかけて戦争をするとの考えはなかった。それが生まれたのは、ナポレオン以降である。それが近代国家、主権国家という考えである。この国家の特徴は、その持ち主が国民であるということ、民主主義にある。国民のものだから、国民が体を張るわけである。
それまでの国家が誰のものかといえば、王様のものであるので、王様に忠誠を誓うから命をかける、あるいは傭兵であるからというものである。傭兵であれば、随分といい加減な者もいただろう。この国家が国民のものであるか、王様の者であるかという違いについて、我々もあまり意識しておらず、なんとなく同じことのように思っていると思う。
この靖国に山折さんがいう「御霊」「祟り」という考えを組み込むと、靖国が持つイデオロギーが見えてくる。
靖国神社への参拝は英霊を祀り、英霊、つまり「御霊」を尊崇する行為とされているが、「御霊」なのだから「祟り」を恐れての行為という文化的深層に突き当たる。参拝し祀る側には、祀られる側(英霊)の呪いがあり、それを鎮める、まさに日本的な宗教儀礼なのである。戦争犠牲者を祀るとは、すなわち英霊を鎮めるためである。尊崇の念には、そのような恐れが組み込まれている。それが畏れである。
菅原道眞を恐れたように、現代日本社会では戦争犠牲者を恐れているのである。つまり政治的罪悪を免除し、祟りの発現を未然に防ごうという行為こそ、靖国参拝という装置である。だから靖国参拝する者の心の奥には、特に政治指導者たちには、そのような無意識が働いている。僕はジェイムソンの政治的無意識を思い出さずにはおられない。
日本人は戦争の「祟り」を恐れているということになるのだから、あの戦争が恐れなければならないこと、例えば犯罪性があることを知っていることになる。これが日本人の宗教性からみた靖国神社の意味であるとすれば、靖国参拝は「祟り」を恐れているのか否かという個人の立ち位置の問題として見えてくる。