Drマサ非公認ブログ

断片6:どうして韓国や中国から反省していないと思われるのか?

 祟りはタタリであった。タタリはカミが地上に現れることである。それは自然に、例えば樹木や岩に現れ、痕迹を残しながらも一瞬で失せる。日本人はそこにカミを読んだ。おそらくは「もののけ」に繋がる。今でも宮崎駿『もののけ姫』が流行るという事実は、カミとの繋がりのひとつの表現である。繋がりがなければ、カミの感覚も喪失するのであり、表現されるわけもないし、ポピュラー文化として日本人の文化資本に蓄えられるはずもない。

 ただ少し危惧することはある。以前若い人と『もののけ姫』の話していた時を思い出すからだ。僕がこの映画が日本的な民俗や宗教的な表現であると「もののけ」の意味に言及した時、この映画を「好きだ」という若い人が、「そんなこと考えもしなかった」とし、この日本的な表現を感じることもなく、好きな理由がアニメとして面白いとか、流行しているから程度であったことだ。そうすると、繋がりが希薄になっているのか疑問が生じる。

 さて、タタリは自然災害としても現れる。つまり人間に災いをもたらす。ここでタタリというカミの顕現の一表現が、悪意と呪いの気配に覆われ、祟りとなってしまう。これは民俗学者の折口信夫からである。「ノル」(宣る)が「ノロウ」(呪う)への転換である。

 前回のブログで内田樹のネットの「呪い」について言及したが、この「呪い」の意味には「祟り」が含まれていることになる。だからネットの言葉には「呪い」の中に「祟り」が込められてしまう。それが日本のカミ、森羅万象が神であることからのひとつの帰結であり、表現であり、心理的効果なのである。

 タタリはカミの顕現であるから、宣託や予言なども含まれる。日本人はその顕現に従い行為し、悪しき「祟り」であれば、それが現実にならないように祈るのである。カミの顕現を媒介するのが、いわゆる霊能者のような存在であろう。昔なら巫女であろうが、カミを降ろす存在を巫俗という。

 カミが死者の霊とともに生きる者に災禍や危害を加えること、これ即ち「祟り」である。カミの怒りや死者の怨みが浄化されず、この世に浮遊している、そういう考えを持たらすのである。だから神社では現生利益を願うだけではなく、お祓いを行うのだ。邪霊、悪霊を祓う、それが日本の神道の重要な役目である。仏教では密教が同様の役目を果たす。怨霊退散や加持祈祷である。

 人が怨みを持ったまま死ぬと「御霊」になり、生きている者に復讐しよとする。それが疫病や地震などの災害である。ちょうどコロナでアマビエが流行ったのは記憶に新しい。なんのことはない。昔の人とやっていることに変わりはない。

 ここで山折さんが例にあげるのは、菅原道真である。平安時代、最高の出世をした彼が、政敵藤原時平の陰謀によって太宰府に左遷され、非業の死を遂げる。人々は彼の怨みを恐れる。当時京都の地には異変が続く。そこで道真の怨み、「御霊」であると考えた。そこには色々な噂話が出回る。今でいえばフェイクニュースである。そこで道真の御霊を沈めるために、彼自身をカミへと昇格する。それが太宰府であり、今も学問の神様である。僕たちはなぜか、このような物語を語ってきたのである。

 このような経緯を見てくると、この転換を可能にしたのが、日本人の文化、宗教であったこと、そして近代になっても、日本文化の底流に同様の力が働いていることが理解できる。道真の例をあげたが、ここでは革命は起きていない。霊を鎮めたのである。

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