前回困った事が起きたが、妻が気にしていないとの話をさせてもらった。僕のようなダメ男だというのにと思っている。
ゴダールの映画に『軽蔑』(1963)がある。僕がメディアを考える上で、僕史上重要な映画である。(参照http://mermaidfilms.co.jp/keibetsu/)
朝新婚カップルが愛を確かめ合っている。しかし、夕方には愛に亀裂が入り、その結果の責任をとるかのように、女性は死んでいくという物語である。主演はブリジット・バルドー、重層的な読みが可能な作品である。
朝愛し合っているのに、昼間の活動の中で、なんだか新婚の夫が腑に落ちない態度なのである。そのような出来事が重ねられていく中で、女性の情緒が変容していく。
ついには最愛の夫に対して軽蔑という感情を抱くのである。しかし夫の方は、何が起きているのかよく理解できないでいる。
あえて簡単にいうと、夫はダメ男であるのだが、その事実に気づかないでいる。妻はその夫に幻滅し、軽蔑の心を変えることはない。
しかし、妻は夫を愛したのである。だから愛したその責任を負うのであり、それが最後の衝撃的シーンとして描かれる。おそらく妻は死ぬまで、夫を愛していたのである。ところが夫は愛そのものを理解できない、そのような人間関係の、あるいは男女関係の襞が描かれている。
僕は軽蔑とは何かを知らしめてくれた映画であると驚いたものだ。女性の方が偉いってことです。
さて僕は今回の件で、自分がダメ男であることを気づかせられた。なんだか理屈っぽくて、『軽蔑』の夫に重なるように思う。というか、男の存在論なんだろうか?こんなことを言っているところが、理屈っぽいわけです(恥)。
僕も妻から軽蔑されるのだろうか。そんなことが頭をよぎるのだが、現実の僕の妻は変わらない。いや恥ずかしいが、ブログという空間だから、あえて言うのだが、妻は全然変わらず僕のことを好きなままだ。
こんなダメ男を愛してくれていて、一緒に生活してくれるのだから、真に贈り物だ。
さて、もう一本似たような解釈ができるドラマがある。次はそれについて描いてみようかと思う。今MXで放送中の中国のドラマ『如意伝』である。