Drマサ非公認ブログ

『如意伝』と『軽蔑』と僕

 僕の理解では、歴史ドラマ『如意伝』は中国版『軽蔑』である。

 前回、僕に問題が生じたことと重ね合わせながら、映画『軽蔑』について触れた。『如意伝〜紫禁城に散る宿命の王妃〜』は現在MXTVでお昼11時から現在放送している中国のテレビドラマである。描かれているのは清朝時代、その最盛期の乾隆帝の皇室の内紛劇である。

 主人公は実在した二人目の皇后で如意という。自身の夫・皇帝の前で自らの髪の毛を切って、歴史からも名前を消される事実に基づいて作成されている。清は満州族であるが、自らの髪の毛を皇帝や皇太后の前で切ることはご法度中の御法度である。ドラマでも描かれている。

 もちろん史実に基づきながらも、ドラマであるからフィクションである。ちなみに同時期を描いたドラマに『瓔珞(エイラク)』がある。こちらの方はエンターテイメントに徹した作品であり、『如意伝』の前に放送されていた。『瓔珞』の方では如意に相当する人物は悪役である。

 

 さて『如意伝』が中国版『軽蔑』と言える理由を述べて行こうと思う。

 

 如意は皇帝・乾隆帝と幼なじみである。子供の頃、かわいい結婚の約束をする。しかしながら、政治的な問題で皇后にはなれない。ただ側室の一人になる。中国の皇帝である。天子である。彼から一番愛しているのは如意であると言われ続け、彼女も信じるし、愛している。幼いとき抱いた心が変わらないのである。

 

不幸が訪れるが、如意の皇帝への気持ちは揺るがない。その気持ちは皇帝への愛である以上に、夫弘歴(皇帝)への愛である。

 

 彼女は不幸が訪れても、夫からの愛を信じようとする。それは皇帝という立場からの愛ではない。信じられる夫からの愛である。愛が二つに分裂している。夫からの愛と、皇帝からの愛だ。彼女は皇帝ではなく、夫への愛だけしか見ていない。

 

 ところが、旦那は夫の妻への愛より、皇帝であることが優先される。彼女に不幸が訪れても、夫の愛を信じるからこそ耐えることができたのだが、皇帝であることの方が優先されてしまう。そのため、妻への愛が軽視される。彼女はその事実に気づくのだ。夫は変わることがないと。その心情を表現したのが、先に言及した自らの髪の毛を切ってしまうことである。

 だから『軽蔑』のように、皇帝はダメ男である。愛に生きることができず、それにさえ気づかないのだ。『軽蔑』と同じで、男は女の愛の意味に気づかず、知らない。『軽蔑』と違って、自身の感情や心持ちを抑えているところが、このドラマに通奏低音のように響いていて、文化の違いというか、中国的な表現に西洋とは違う独自性があり、趣を感じる。如意は失意ではなく、自然に死んでいく。そして、乾隆帝は長生きし、如意への思いを抱えて大往生する。この自然さに日本人として、じんわり感じるのである。

 そういえば、僕に問題が起きたから、という話であった。僕の方が敏感になって、このような解釈が生み出されてきたとしたら、悪いことばかりではないということになるのかな。

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