今日は休みになってしまったので、調布市で催された作家藤原智美さんの講演を見に行った。お題は「この先をどう生きるか」で、雨にも関わらず結構客が入っていた。藤原さん自身も上々の客入りに喜んでいたというか、驚いていたとの印象を受けた。
藤原さんの著作はいくつも読んでいた。芥川賞を取った作家であるが、申し訳ないのだが小説の方は読んでいない。どちらかというとエッセイというか社会評論の方を読んでいた。有名なのは『暴走老人』。なんせベストセラーである。最近は『スマホ断食』などがある。
話口調が穏やかで、所々ユーモアがあって、聞きやすかった。さて内容は、「この先をどう生きるか」という題から「暮らし」「家事」が大切であるというもので、3つのキーワードから、自らの体験をもとに話していた。面白かったし、僕個人の関心というか価値観と重なるので、現代が我々を方向付けることなのかとの感想を抱いた。っていうかさすが作家さん、構成が上手いっすよ(笑)
内容は公演に参加した人の特典なので、ほんの触りだけ。定年になって自由になったと言ったって、結局労働を行うようになってしまうという話をしてくれた。納得という感じである。
そこで家事をやる。どうしてか、仕事をしなくとも、人間は生きるのに家事をやらざるを得ない。だから、家事をやればいい。そこにはキチンと創作性があるので、楽しみを作るという。藤原さん自身の体験を組み入れながら、話は進んだ。
僕はこの話に納得しながら、現代の生活が藤原さんのいう家事が「暮らし」になるだろうかとも感じる。というのは、家事は効率化、機械化、システム化しているから、かつての家事が持つ「暮らし」性が後退するような気がしている。自分でやらなくていい側面が強くなっている。自律性が失われる。
「暮らし」ではなく、消費することがあたかも暮らしのようになっているのだが、実はそれは「暮らし」のように見えて、システムに依存した自律性を奪われた消費に過ぎなくなっている。だから、消費の可能性が大きいことが、あたかも幸福感を構成しているように勘違いしてしまうのだろう。
僕は生活世界(ハーバーマス)がシステム批判する意味は、こういうところにあるのではないかなどと、藤原さんの話を聞きながら、頭を巡らせていた。実は淡々と「暮らし」をすること、そこにこそ幸福があるという当たり前の話であり、文化や伝統を大切にするという話にすぎない。ただ、それに気づくのは発見として現れる。
たまに他者の話を聞くのもいいものである。