Drマサ非公認ブログ

道徳の価値が薄れた結果

 色々社会の中で目立つ問題は道徳のなさにあるように感じる。

 だからといって、国が道徳を法的に強制していいわけなどないのだが、国家と個人を直接結びつけると、その個人は道徳の源泉を国家に求めてしまう。共同体の弱体化が道徳の価値を希薄にしてきたのだ。

 総理大臣が国会で100回以上嘘つくことから、回転寿司とかの迷惑行為なんかもそうだし、金欲しさに資産のある高齢者を殺してまで金を奪うことなども含めて、須らく道徳の稀薄化を見てしまう。一昔前なら金が欲しいからといって、弱い人間を殺してまでという行為に短絡的に結びつかなかったように思う。

 あるいは裁判で賠償を命じられても、法的強制力の弱さを逆手にとって支払いを怠るとか。あくまで支払い能力があるにも関わらずとなれば、当然道徳がないことになる。

 その意味で日本は変質した。ただ凶悪犯罪が増えたわけではないので、規範意識が強くなってもいる。法的縛りだけは気にするが、法的に追い込まれなければ、問題ないという態度こそ、道徳がないということだろう。僕は一貫して、このような態度を非社会性としている。

 そもそも私たちの生活の土台が変質しているのだと思う。こんなことを思い出してみた。

 僕が中学高校の頃、当然喫煙は禁止されている。しかしながら、喫煙している奴らはいた。まず道徳は禁止という形で現れているが、それを破り喫煙するのだから、問題がある。しかし、道徳という水準でみると、この喫煙をする未成年は喫煙が悪いこととなっていることを知っていたので、親や先生にバレないようにしていた。

 これは法的に禁止であるだけではなく、道徳的にも悪いことという親や先生と子供や学生との間で共通認識ができている。

 それが変わる。みんな喫煙しているのだから、問題ないという意識が親の方にまで広がっていき、ついには先生も見ぬ振りを決める。こうなると、上記の道徳の部分が緩くなってしまう。そうすると、社会全体で未成年の喫煙を許容する。「まあ、その年頃の時には吸ってから」と。

 子供を理解する”いい親や先生”になって、親や先生が舐められ始めるのだ。大人と子供を分け隔てていた境界が希薄になったわけだ。ちなみに日本は世界で最も子供が大人を尊重しない国である。

 ここに社会の変質がある。かつて親や先生に隠れていたことが、それらの目を気にすることもなく、大っぴらに行えるようになる。それは道徳の水準で変質があったことになる。バレるとまずいという意識が稀薄化する。と同時にバレなきゃなんでもいい。ポストモダンっぽいなあ。

 このように道徳で禁止されていたことが、皆がやっている、あるいは偉い人もやっているという認識が広がっていく。このような価値意識の中で生活していけば、かつての道徳は道徳としてなんら変化がないように見えたとしても、人々の行動から道徳性を奪っていく。

 そのような土台が生み出す現象に現在批判される非道徳的行いが存在する。代わりに何が浮上するのか。損得、功利主義であろう。

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