ナショナリズムとは、民族を重要とせず、民族としての統一性を無効にし、統一性を国家(nation state)にまとめたもので、国民(nation)を作り上げたということです。
ですから、近代以前に国民はいません。現在から見たら、国民に見えるだけで、民衆がいただけで、その民衆は自分が国家に所属するなどと、考えたりすることはないのです。
近代こそ、国民が必要だったのです。そのおかげでというか、そのせいで、「自分の国」という意識が作られ、「自分の国」だから、自分で守らなければならないということになったのです。そのような考えが近代的な軍隊を作りました。
それまで軍隊は貴族や傭兵でした。ところが国民が自国を守るということで、軍隊が編成されます。国民軍です。ナポレオンが国民軍を率い、ヨーロッパ中を席巻します。なぜナポレオンは強いのか。それは国民軍だったからです。それらが真似されます。それは「自国は自分のもの」というナショナリズムとして広がったのです。
ナショナリズムは人工的です。それは近代が合理的に作られることの証左のようでした。啓蒙です。啓蒙が世界を開くと考えましたが、そこに胡散臭さを読み解く人々がいました。
それが保守です。保守思想とは、人間の合理的な判断ごときで、世界がどれほど理解できるのかと考えます。変革を否定するのではありません。人間が考えた、啓蒙がもたらす変革が、人々の幸福安寧に応えられるのかは未知数です。ですから変革に慎重な目を持ちます。
変革しなければならないことがあれば、変革を慎重に、慎重に、進める必要があると考えます。漸進主義を取ります。ちなみに左翼は、人間の理性への信仰を持つため、啓蒙が唱える変革を進めることをひたすら肯定するのです。進歩主義です。
両者は対立するのです。さてナショナリズムと親和的なのは、どちらでしょう。なんと左翼なのです。
ですから、保守はナショナリズムに対しても必ず懐疑的な目を持つのです。僕はナショナリズムは人工的に作られたと思いますが、郷土愛は自然に、共同体的に作られたと思います。この二つは別物です。それを郷土愛が同心円状に広がりナショナリズムになるのは自然なことであるというのは、想像の産物(想像の共同体)で嘘でしょう。
郷土愛が希薄になることは、人間関係が希薄になるのではないかと考えていたのです。実際そうだったのです。ここに見られる変化を故郷喪失というのです。国の一員であることの共同性とかつての郷土愛が基本の共同性、全くもって違うのです。