Drマサ非公認ブログ

ナショナリズムについて少しばかり3

 ナショナリズムに関しては、言葉の問題、つまり国語(標準語)とマス・メディアが強い力を発揮しました。それについては改めてにします。

 近代になって国民国家が成立しました。ナポレオンがその中心でした。国民軍の活躍です。実に面白いと思うのですが、国民軍が無階級状態を作ったのです。つまりこれが平等です。日本社会であれば四民平等を、フランスなら貴族ではなく市民階級の社会を志向するのです。しかしながら、軍隊は閉鎖的社会を作り上げ、そこに階級が作られます。階級というより階層でしょうか。

 そして、その軍隊の階級状態が、社会組織にも影響を与えます。組織に階層を作ります。そもそも官僚制は、意識伝達や決定の効率化のために階層構造を必然化しましたが、社会全体がそうなっていきます。

 例えば近代の病院は軍隊に倣って作られます。ですから職員に一等、二等などの軍隊の名残があります。以前僕は大学病院に勤めたことがありますが、病院職員の正式な役職に「二等XX」などとついていた記憶があります。

 第一世界大戦がそれまでの戦争と様相が違うのは、総力戦を展開したことにあります。なぜ総力戦なのかといえば、国民が参加する国民軍の戦争だからです。ここに平等という思想が組み込まれているのです。これはナショナリズムの帰結です。一昔前なら、戦争は戦争に従事する人間、つまりは貴族や傭兵に限定されていました。

 そこで保守です。こういうナショナリズムの帰結に、ナショナリズムを生み出した理想に問題があるのではないかと保守は考えます。そのため保守が平等や人権を普遍的価値とすることに躊躇します。なんせ近代の啓蒙は、人権を普遍的価値として発見したのですが、社会に問題も多々起きます。平等も同様。

 勘違いしてはいけないのは、人権や平等、そして自由を保守は認めない訳ではないのです。それらの価値は人間という限定的存在が発見したものにすぎませんから、間違いがあるかもしれないと慎重なのです。なんせ人間の発見した観念が、神様みたいではないですか。

 そもそもそれらの価値は、個別具体的な状況や歴史的プロセスの中で問われるものです。これらをプラトンのようにイデアに祭り上げる、絶対の価値とするわけにはいきません。なぜなら人間は限界があるからです。実際プラトンはイデアという真の真実在を語りますが、その中身については全く言及しません。保守は人間の知の限界を意識するので、プラトンのような認識が理想論に陥ることも避けるでしょう。

 では、近代をいきなり廃止するのも、また横暴です。いまの現実に立脚するしかないわけです。そこで理想に飛びつくのではなく、伝統に目を向けるのです。僕の個人的な感想ですが、保守の伝統擁護が伝統の理想化に向かうこともあるように思います。

 結局、パスカルが『パンセ』で言う通り、人間は考える葺なのです。ちなみ「パンセ」は「考える」です。「葦」は弱いことを表しています。

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