オリンピックの話題。
ネット上で本当は男性であって、おかしいという意見が主流であった。それをこの記事は、「生まれつき女性」と指摘。誤解を解こうとする記事のように見える。
何だか本当は男のくせに女性の競技に出るなんて、あまりにフェアではない。そういうことなんだろう。
とはいえ、とりあえず外見は男性。染色体は女性であった。という人なんだろう。さて、ではそういう人は男か女か決定することができるのだろうか。僕は「できない」と考える。
自然というのは不思議なもので、男とも女とも言えるような存在を作ってしまう。人間でもそういうことが起きる。それを私たちは病気であるとか、遺伝子異常であるとか、色々位置付けの論理を組み込んでいく。今回はトランスジェンダーと名付けているのだ。これは言語による政治的行為である。
社会は遺伝子の方に本質があると設定して、この人を女性であるとしているのだ。そういう意味で政治的行為。オリンピックではそういうことにしてルール化している。
しかしながら、男でもあり、女でもあるという認識を持ってきてもいいのだ。どちらかに位置付けなければならないと皆信じきっているように思える。いわゆる容中律で考えればいい。男か女かというデコトミー(二項対立)、あるいは排中律で世界を位置付けているのだ。
容中律については、拙ブログ参照のこと。https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/0edd74124c60aa8a783502f0f94c9ec3
そして、オリンピックという競技の世界で、フェアであることを至上命題とする世界。「男か女か」というのはフェアそれ自体を位置付ける。
実は自然は男とも女ともいえない存在を作り上げている。そこに人間社会が作った人為的なフェア(公平性)を適応させれば、そこは矛盾として現れる。今回のオリンピックのトランスジェンダーの問題は、まさにこの矛盾が現れたのだ。
実は世界はこのような矛盾を抱えて存在するのだが、人間意識はこの矛盾を許容できないようだ。それが意識批判とか、概念批判になるのだが、人々の日常生活の中で培われたリアリティとは乖離がある。つまり理解できない。
世界は正しいに向かう運動であるが、正しいが実在するかは疑わしい。そこで、どうにかこれまで正しいとしていたことに載っかってやりくりする。そういうことを意識は現在の意識を自己否定しつつ意識化して行くそういう運動である。
あれ、ヘーゲルかな?