1964年生まれの僕は、戦後民主主義的風土で育ったといっていい。まだ戦争の残り香があった時代である。
中学の担任教師は戦争に従事した経験を話すことがあった。具体的にどんな経験だったかを話してくれたかどうかは記憶がない。ただホームルームを生徒に任せて、教室の地べたに寝そべって見せたことがある。そして、起きて一言。「戦争の時は地べたに寝るなど朝飯前のことだ」「立ったまま寝たものだ」。
なんだかわからないが、今でも記憶に残っている。良い先生だったと思う。なんだか戦争はとにかくいけないことであると感じていた。そういう空気になっていたように思う。
その空気は、民主主義を良いものとするような空気にもなっていた。だから、それを当然とする中で生きてきた。とにかく戦争はダメだと。そのためには民主主義とも。
僕は大学で哲学を学んだ。そうすると、プラトンが民主主義を非難していることを知った。その主張は、民主主義は悪い政治を生み出す原理のようにさえ言っていた。ただそれが何を意味しているのかと、自身の身になって考えるということもなかったので、生きた知識になることもなかったと思う。
少し歳をとってから勉学に励むようになったので、20世紀になるまではどうも民主主義は悪いイメージであったことを知るようになる。トクヴィルの『アメリカン・デモクラシー』なんかから見えてくることだった。
アメリカは建国と同時に民主主義国家であると思われがちだが、建国の父に当たるワシントンやフランクリンは自らを民主主義者であるなどということはなかったはずである。彼らは大統領を抱く共和政であるとしていたことである。つまり民主主義とは言いたくなかったのであろう。民主主義はそういう悪いイメージを抱える言葉であり、政治であると信憑されていたのである。
一応確認しておけば、共和政とは社会が王様貴族、そして庶民など全てを構成員とする政治体制である。通常は市民による政治共同体と理解されるから、アメリカがそういう国であることに異論はないことになる。
そのアメリカが民主主義を打ち出すのは少し時間が立ってからである。ここらあたりで、古代ギリシャの民主制、つまり人民に権力があるという考えが接合される。米国の民主党が成立する。共和政であったから、共和党はその前からあったわけだ。