「第三話 妻なればこそ」では、生活力のない夫のために、お嬢さんであった女性が水商売をしているという不幸話がでてきます。ここでは、まだ「大地」に亀裂が入っていません。不幸であるにもかかわらず、妻は疑問をもちながらも、夫と妻の結びつきはどうにか保たれています。
ここで遠藤周作は「夫と妻の結びつきは幸せ、不幸だけではわりきれぬもっと深い結びつきをもっているような気がする」と記しているのが、ここでいう「わりきれぬもっと深い結びつき」が「大地」です。
そうすると、遠藤の言う「幸せ」「不幸」は「大地」が成り立っていれば、どちらもありうることという意味になります。「わりきれぬもっと深い結びつき」の元、現象となるのが「幸せ」であったり、「不幸」になります。
次のように考えることができます。「大地」が成り立っていれば、「幸せ」や「不幸」があるわけです。そういう感情でしょうか、あるいは生活があるということでしょうか。つまり「大地」が成り立っていないと、「幸せ」や「不幸」を感じることもできない。あるいはそういう感情が成立しないということでしょう。
確かにそういう状況を見ることができます。例えば、重度の精神疾患になっていて、感情を喪失している状態。あるいは依存関係が高じてしまい、暴力を暴力であると認識できない状態。などなどです。家族が不幸と感じたとしても、本人は不幸とさえ感じる力を失っているのです。これこそが真に不幸ではありますが、本人は「幸せ」と「不幸」の外にいるようです。
ここで比較するのに都合のいい人物がでてきます。バーに勤めている女の子です。彼女は、そんな結婚なら「飛び出しちゃう」と笑っています。この若い女はまさに夫婦や恋愛対象が選択可能な存在、つまり取り替えることができる存在であると位置づけているのです。
しかし、「大地」とは、それ自体自分が根ざしているがゆえに、交換不可能性を帯びてしまうわけです。ちょっとしたことでは揺るぎないわけです。正確にいえば、少しは揺らぐのですが、それを包容して生きていくことになるわけです。その包容力こそが、また夫婦の結びつきの強度や柔軟性をつくります。
比喩的にいえば、耐震構造をもつわけです。それゆえ、多少「悪しき」ものも引き受けます。例えば、散らかしたものを片付けないのはしょうがないとかいうことです。
よく生理的に受け付けないといって他者を否認する人物がいますが、そういう人物こそ、包容力を欠き、人間関係を気づくことができない可能性があります。その発言が認められているのは、その周りにいる人物と損得勘定の関係ができているからでしかありません。これも蛇足でした。
つまり「大地」の上での「幸せ」や「不幸」を人間関係の本質と見なしてしまうのです。人間関係の本質は、気づかないで存在している「大地」です。
「幸せ」という感情を絶対化してしまえば、それほどの「不幸」ではないものが、自分にとっては決定的な要因であると考えてしまうのでしょう。
さんまのからくりTVのおばあちゃんを思い出してください。おばあちゃんはおじいちゃんを一度も好きではないどころか、50年嫌いです。この好き嫌いは「大地」が成立しているからこその感情です。
このおばあちゃんが嫌いとの感情をただ押し殺して生きていたとしたら、いつか感情自体を喪失したかもしれないのです。とすると、おばあちゃんの周りにいる人たちと、それなりの関係、支え合う関係を気づいていたことは想像に難くないことです。
あ、でも、おじいちゃんもおばあちゃんを支えていたことを忘れてはいけません。僕たちは感情である「嫌い」だけを見てしまいます。そうすると、この支え合いが成立してることを見逃すのです。