政治も社会も「関係を切る」ことに向かおうとしているように見える。それは我々庶民もまた「関係を切る」ことに向かおうとするのであり、それが政治の現状をも支えているように思われる。
「関係を切る」ことによって、手に入るものの代表格は利便性である。コスパがいいとか、便利だとか、早いとか、そういう感覚に訴えるものだから、それは経済的利益にもつながるものである。
例えば、焼肉屋のチェーン店に行き、焼肉を食べるとする。皆喜ばしいことと観念化する。
そこに欠けてしまうのは、それまで世話してきた人や牛の生活、当然生き物であるから、牛を殺した人間がいて、それらを保存したり、チェーン店まで運んでくる人間、そして料理する人間などなど具体的な生きている存在としての人間である。
僕たちは彼らを生きている人間としてではなく、労働力としてみなしてしまう。
いろんなことが関係づけられているが、チェーン店でそれを食する時、食の喜びと引き換えに、牛を含めて彼らとの「関係づけ」が後退する。いや、昔目の前で絞めて鶏肉を食べたことと比較すると、関係づけることを辞めてしまったのである。
これが近代化の一側面であり、利便性あるいは社会学的には分業のおかげで、豊かな社会が維持されているのである。
このような具体的な人間同士を関係づけることを辞めることが社会全体で広がっているわけであるが、何か問題が起これば、実際に問題が生じている当人同士ではなく、その専門家が媒介して解決に当たるということがデフォルトになっていく。だから保険業者や弁護士、さらに便利屋さんなどが盛んになるし、生活に当たり前のように入り込んでいる。
現代人は関係を切ることに向かってしまう。関係を切るなどと意識もせずに。とすると、必然的に人間関係は薄いものになっている。
「関係性の希薄化」、これが現代の、特に日本社会の根本的問題である。昔の人たちは共同体の中で生きていたので、関係性は濃かったであろう。ただ自由は享受できなかったと批判される。
「新しい時代」であることによって見えづらくなるものがあることを自覚すれば、当然昔の人の生き方を学ぶこと、つまり温故知新が大切であり、過去を学ぶことが大切であるという、当たり前の話になる。