
今日は「宜昌」で2ヶ所の史跡をハントし、夕方には「荊州」に向かう予定にしました。
1つは『猇亭古戦場』、もう1つは『三遊洞』です。
一応、どっちも「路線バス」で行かれる範囲内です。


7:00起床し、8:10「ホテル」をチェックアウトしました。


8:15「宜昌長途汽車客運站」前から「102路バス」に乗りました。
本当は「10路バス」で『三遊洞』から行こうと思ったら、「バス停」に「10路」が見当たらなかったんですよね…

最初方向を間違えて逆に行く「バス」に乗ってしまったんじゃないか

でも、8:50「猇亭」に着き、下車しました。


『猇亭古戦場』入口に着きましたが、售票処が閉まってる…

でも貼紙があって、下辺売票とかって書いてありましたが、下辺ってどっち

隣りにあった「会社」に入って、中にいた女性に「チケット売場って、どこですかね?」と尋ねると「左方向に下りて5分くらい歩くと門があるわよ」と教えてくれました。

このクマみたいなモノですが…『劉備』は「蜀漢皇帝」の威厳を示すために「盤龍臥虎亭」を3日のうちに建てるように命じましたが、出来上がったのは「虎」ではなく「怪獣」だったので、「虎」という字に「けものへん」を付けました。
それが「猇亭」の「猇」の字になっているんです。

9:05『猇亭古戦場』に入りました。

「荊州」と『関羽』を失った『劉備』は、『諸葛亮』や『趙雲』が「敵は呉ではなく、漢の天下を奪った魏の曹丕です」と諫めも聞かず、221年に「呉」に攻め込みました。
「長江」の流れにのり、勢いに任せて最初は優勢だったものの、「呉」の若き将軍「陸遜」の策にはまり徹底的に敗れました。
この戦いで多くの武将や兵を失い、『劉備』は命からがら「奉節」の『白帝城(2月7日にハントしました)』まで逃げ落ちました。
それが「三国志」の「三大戦役」である「夷陵の戦い」であり、戦場になったのが「長江三峡」から「宜昌市」にかけてのこの辺り一帯なんです。

入ると「古馬車」がありました。

これ…誰ですか?

これは「千年古井」です。

とにかく、この『猇亭古戦場』は広くて、多くの遺址があります。
いくつかしか紹介出来ませんがお付き合いくださいね。

こんな断崖の道を進みます。


これは「烽火台」です。


これは「神鷹伝奇」ですが…奥の像は『劉備』でしょうか?


「猇亭之戦遺址碑」です。

これは「屯兵洞」です。

これは「三思鼎」です。

「傅彤勒馬」です。
「傅彤」は『劉備』が「呉」に惨敗を喫した「夷陵の戦い」において、退却する『劉備』軍の「殿(しんがり)」を務めました。
その際、「呉」の降伏勧告を受けましたが、「漢の将軍が呉の狗に降れるか」と罵って戦死しました。


これは「関公廟」です。



その前にあった「結義石」です。
「結義石」には『劉備』『張飛』『関羽』の顔が彫られています。

「関公廟」の中の塑像です。



左から『張飛』『劉備』『関羽』ですね。



その両サイドにあったのは「張苞」と「関興」かな?

これは「三友園」です。

「三友園」内の「桃園三結義」像です。


「観音堂」なんてのもありました。


『劉備』が「皇帝」の位に昇ると「侍中」に任命されましたが、「夷陵の戦い」で戦死した「馬良」です。

「宜昌長江公路大橋」です。

「趙王廟」内の「観音様」ですか?

「関興営」です。

「張苞営」です。


「古霊白塔(左)」と…この写真(右)の武将は誰?
「三国演技」では「夷陵の戦い」で戦死することになる『黄忠』の像があるらしいんだけど…白塔の脇にあるのが『黄忠』像だと思います。
…まさか入口近くにあった「あれ」じゃないでしょう…

「関興」や「張苞」といった若者の活躍に、『劉備』が「年寄りは役に立たない」と言った失言を聞いて憤激した『黄忠』は敵陣に突撃して行き戦死します…75歳だったらしい?
かなり歩きましたが、10:15『猇亭古戦場』を出ました。
10:20「102路バス」に乗り、また「宜昌長途汽車客運站」前まで戻ります。


10:50「宜昌長途汽車客運站」前で降りました。
次は「10路バス」で「三遊洞」に向かいますが…続きはこの後のレポートにて。

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