2月6日(金)2/2
さて、続きでーす。
11:15『一乗寺下り松決闘地』に着きました。
当主『清十郎』に次いで頼みの弟『伝七郎』までが倒されてしまったことで『武蔵』の名は高まる一方で、『名門・吉岡道場』は滅亡の危機に立たされてしまいます。
『武蔵』に対する「吉岡一門」の憎しみは頂点に達し、『武蔵』1人を倒すことに執念を燃やすのでした。
『武蔵』と「吉岡一門」の最後の闘いの舞台となったのが、ここ『一乗寺下り松』でした。
そして『八大神社』に行きました。
映画のシーンでの「一乗寺の決闘」が紹介されてました。
これら『武蔵』関連の映画観て~
これが「本殿」です。
そして決闘当時の『一乗寺下り松古木』が奉納されています。
俺は、やっぱ漫画『バガボンド』ファンなんでね…どうもこの『武蔵』は「和太鼓を叩く人」にしか見えないんだよな~
ここで昨晩買ってあった「おにぎり」を食べて、11:40ごろ『八大神社』を出ました。
外の駐車場の隅に「自転車」を停めていたんだけど、駐車場のババアが「駐車場に停めたら500円よ」と怒っててさ…
別に「自転車」なんてどこでも停めれるんだし、駐車に支障が全く無い所に停めてただけなのにさ…(て言うか、そんなに観光客来ません)。
謝って金を払わずに出て来たけどさ、性格の悪さが顔に出てる感じの「ババア」だったんで、去り際に「死ね、ババア」と言っておきました。
次は、ちょっと遠いんだけど『光悦寺』に向かいました。
12:50ごろ『光悦寺』に着きました。(入場料¥300)
これは「本堂」かな?
江戸初期の文化人『本阿弥光悦』が1615年(元和元年)「徳川家康」から与えられたこの地に草庵を結び、「法華題目堂」を建てたのが起こりです。
境内には、「大虚庵」など7つの茶室があります。
竹を斜めに組んだ垣根は『光悦垣』と呼ばれています。
『本阿弥光悦墓』です。
『本阿弥光悦(1558-1637)』は家業の「刀剣の研磨、鑑定」はもちろん「書」「製陶」「蒔絵」「茶道」などにも精通しました。
『バガボンド』では『吉岡道場』の当主『吉岡清十郎』との闘い後の『武蔵』を私宅で養生させます。
そして13:00すぎ『光悦寺』を出ました。
これは『上品蓮台寺』です。
『バガボンド』では洛北郊外の「蓮台寺野」で『武蔵』と『吉岡清十郎』が闘いました。
本来1年前の約束で弟『伝七郎』が『武蔵』と闘うことになっていたのですが、「蓮台寺野」にいた『武蔵』の前に『清十郎』が現れます。
そして2人は闘うのですが『清十郎』は『武蔵』の剣によって「真っ二つ」に斬られてしまいました…
その「蓮台寺野」が現在の『上品蓮台寺』辺りにあたります。
13:25次は『金閣 鹿苑寺』に行きました。(入場料¥400)
実は『三十三間堂』『清水寺』『銀閣寺』、そしてこの『金閣寺』と…初めて来たんですよ。
やっぱ『金閣寺』は綺麗だよね~さっきの『銀閣寺』(入場料¥500で改修中)とは、えらい違いだよね。(だって『銀閣寺』は銀色じゃないし)
「龍門の滝」と「白蛇の塚」です。
これは「夕佳亭」です。
ここは「茶所」ですね。
13:50ごろ『金閣寺』を出ました。
そして『大徳寺』前を通りました。
『大徳寺』の『大仙院』は『沢庵和尚』も住職を務めたといいます。
14:05ごろ『本法寺』に着きました。
『本法寺』は、「本阿弥家の菩提寺」で、『本阿弥光悦』作の「本法寺庭園〔巴の庭〕」は国の名勝に指定されています。(入らなかったけど)
写真右は『光悦手植えの松』です。
ここは『本阿弥光悦京屋敷跡』です。
『吉岡清十郎』との闘い後の『武蔵』は、対『伝七郎』戦まで、ここに世話になってたのかな?
14:35『二条城』前を通り…
15:00『伊東甲子太郎他数名殉難之地』に着きました。
『伊東甲子太郎(1835-1867)』は元治元年(1864年)10月、同門の「藤堂平助」の紹介で『新撰組』に入隊しました。
慶応3年3月20日「薩摩の動向を探る」という名目と、「孝明天皇」からの「御陵警備」任務拝命により『新撰組』を離脱します。
『御陵衛士(高台寺党)』を新たに結成し、『新撰組』結盟以来の隊士で八番隊組長の「藤堂平助」も『御陵衛士』に参加しました。
慶応3年11月18日『近藤勇』は自分の妾宅に『伊東』を呼び出して酔わせ、帰宅途中の「油小路」で『新撰組』の「大石鍬次郎」ら数名に暗殺させました(油小路事件)。
酒に酔わせたうえで、多人数で待ち伏せ、また闇から刺すという慎重な暗殺方法を取ったのは、「北辰一刀流剣術」の道場主であった『伊東』の剣の腕を『近藤』や『土方』が警戒したからとも言われています。
伊東の遺体は「油小路」に放置され、『御陵衛士』をおびき出す手段として使われました。
『御陵衛士』が収容しにやって来たところを、待ち伏せていた『新撰組』と斬りあいになり「藤堂平助」らが死亡しました。
そして「京都駅」で「自転車」をバッグに収納して、15:20構内へ。
16:45「神戸駅」に着きました。
それから「ウマ」に迎えに来てもらい、ウマの部屋で少し休んだ後、19:00ごろO君、ウマと3人で「三宮」に出て、1人の女生徒と4人で夕飯を食べました。
そして20:25ごろ女生徒と別れ、3人で「神戸」に戻りました。
今日もウマの部屋にお世話になりました。
明日は7時ごろ出発して「姫路」に向かいまーす。
さて、続きでーす。
11:15『一乗寺下り松決闘地』に着きました。
当主『清十郎』に次いで頼みの弟『伝七郎』までが倒されてしまったことで『武蔵』の名は高まる一方で、『名門・吉岡道場』は滅亡の危機に立たされてしまいます。
『武蔵』に対する「吉岡一門」の憎しみは頂点に達し、『武蔵』1人を倒すことに執念を燃やすのでした。
『武蔵』と「吉岡一門」の最後の闘いの舞台となったのが、ここ『一乗寺下り松』でした。
そして『八大神社』に行きました。
映画のシーンでの「一乗寺の決闘」が紹介されてました。
これら『武蔵』関連の映画観て~
これが「本殿」です。
そして決闘当時の『一乗寺下り松古木』が奉納されています。
俺は、やっぱ漫画『バガボンド』ファンなんでね…どうもこの『武蔵』は「和太鼓を叩く人」にしか見えないんだよな~
ここで昨晩買ってあった「おにぎり」を食べて、11:40ごろ『八大神社』を出ました。
外の駐車場の隅に「自転車」を停めていたんだけど、駐車場のババアが「駐車場に停めたら500円よ」と怒っててさ…
別に「自転車」なんてどこでも停めれるんだし、駐車に支障が全く無い所に停めてただけなのにさ…(て言うか、そんなに観光客来ません)。
謝って金を払わずに出て来たけどさ、性格の悪さが顔に出てる感じの「ババア」だったんで、去り際に「死ね、ババア」と言っておきました。
次は、ちょっと遠いんだけど『光悦寺』に向かいました。
12:50ごろ『光悦寺』に着きました。(入場料¥300)
これは「本堂」かな?
江戸初期の文化人『本阿弥光悦』が1615年(元和元年)「徳川家康」から与えられたこの地に草庵を結び、「法華題目堂」を建てたのが起こりです。
境内には、「大虚庵」など7つの茶室があります。
竹を斜めに組んだ垣根は『光悦垣』と呼ばれています。
『本阿弥光悦墓』です。
『本阿弥光悦(1558-1637)』は家業の「刀剣の研磨、鑑定」はもちろん「書」「製陶」「蒔絵」「茶道」などにも精通しました。
『バガボンド』では『吉岡道場』の当主『吉岡清十郎』との闘い後の『武蔵』を私宅で養生させます。
そして13:00すぎ『光悦寺』を出ました。
これは『上品蓮台寺』です。
『バガボンド』では洛北郊外の「蓮台寺野」で『武蔵』と『吉岡清十郎』が闘いました。
本来1年前の約束で弟『伝七郎』が『武蔵』と闘うことになっていたのですが、「蓮台寺野」にいた『武蔵』の前に『清十郎』が現れます。
そして2人は闘うのですが『清十郎』は『武蔵』の剣によって「真っ二つ」に斬られてしまいました…
その「蓮台寺野」が現在の『上品蓮台寺』辺りにあたります。
13:25次は『金閣 鹿苑寺』に行きました。(入場料¥400)
実は『三十三間堂』『清水寺』『銀閣寺』、そしてこの『金閣寺』と…初めて来たんですよ。
やっぱ『金閣寺』は綺麗だよね~さっきの『銀閣寺』(入場料¥500で改修中)とは、えらい違いだよね。(だって『銀閣寺』は銀色じゃないし)
「龍門の滝」と「白蛇の塚」です。
これは「夕佳亭」です。
ここは「茶所」ですね。
13:50ごろ『金閣寺』を出ました。
そして『大徳寺』前を通りました。
『大徳寺』の『大仙院』は『沢庵和尚』も住職を務めたといいます。
14:05ごろ『本法寺』に着きました。
『本法寺』は、「本阿弥家の菩提寺」で、『本阿弥光悦』作の「本法寺庭園〔巴の庭〕」は国の名勝に指定されています。(入らなかったけど)
写真右は『光悦手植えの松』です。
ここは『本阿弥光悦京屋敷跡』です。
『吉岡清十郎』との闘い後の『武蔵』は、対『伝七郎』戦まで、ここに世話になってたのかな?
14:35『二条城』前を通り…
15:00『伊東甲子太郎他数名殉難之地』に着きました。
『伊東甲子太郎(1835-1867)』は元治元年(1864年)10月、同門の「藤堂平助」の紹介で『新撰組』に入隊しました。
慶応3年3月20日「薩摩の動向を探る」という名目と、「孝明天皇」からの「御陵警備」任務拝命により『新撰組』を離脱します。
『御陵衛士(高台寺党)』を新たに結成し、『新撰組』結盟以来の隊士で八番隊組長の「藤堂平助」も『御陵衛士』に参加しました。
慶応3年11月18日『近藤勇』は自分の妾宅に『伊東』を呼び出して酔わせ、帰宅途中の「油小路」で『新撰組』の「大石鍬次郎」ら数名に暗殺させました(油小路事件)。
酒に酔わせたうえで、多人数で待ち伏せ、また闇から刺すという慎重な暗殺方法を取ったのは、「北辰一刀流剣術」の道場主であった『伊東』の剣の腕を『近藤』や『土方』が警戒したからとも言われています。
伊東の遺体は「油小路」に放置され、『御陵衛士』をおびき出す手段として使われました。
『御陵衛士』が収容しにやって来たところを、待ち伏せていた『新撰組』と斬りあいになり「藤堂平助」らが死亡しました。
そして「京都駅」で「自転車」をバッグに収納して、15:20構内へ。
16:45「神戸駅」に着きました。
それから「ウマ」に迎えに来てもらい、ウマの部屋で少し休んだ後、19:00ごろO君、ウマと3人で「三宮」に出て、1人の女生徒と4人で夕飯を食べました。
そして20:25ごろ女生徒と別れ、3人で「神戸」に戻りました。
今日もウマの部屋にお世話になりました。
明日は7時ごろ出発して「姫路」に向かいまーす。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます