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史跡ハンター 臥龍

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幕末史跡めぐり・其之二十六~下田編 Part.2

2010年03月30日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月30日(火)2/3
それでは、続きでーす。

次は「了仙寺」に行きました。

「久里浜」で日本開国を提唱するアメリカ大統領の親書を渡した「ペリー」は翌年の再来航を約束して、いったん中国「上海」に向かいます。
そして再び「浦賀」に来航したのが、1854年1月。
それから3月31日(嘉永7年3月3日)には「日米和親条約」が「横浜」で締結されます。
その中で決まったのが、「下田」と「函館」の開港(箱館は翌年の開港)とアメリカ船の日本における物資の確保とアメリカ人の安全の保障などです。

しかし「横浜」で締結した「日米和親条約」では細かい点がほとんど決められていなかったため、「下田」に上陸した「ペリー」は早速日本側と交渉に入りました。
その場所となったのが、ここ「了仙寺」です。
10日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)「日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)」が結ばれました。
この中で、アメリカ人は「下田」の街中を自由に歩く権利、すなわち「遊歩権」を与えられました。
これは一種の交流権ともいえるもので、黒船のアメリカ人と下田の町民たちは、ここで異文化交流を体験しました。

境内裏には「了仙寺横穴遺跡」の洞窟があります。
この遺跡の洞窟は、今から約1300~1400年程前、古墳時代に墓として利用されていたと考えられており、洞窟内より人骨とともに、幻玉や水晶製の腕輪や耳飾り等の装身具、土師器、須恵器が出土しました。

境内の「了仙寺宝物館」に入りました。(入場料¥500)

「ジョン万次郎」の扇と、「お吉」が詠んだ直筆の歌です。

これは以前「山口編」でも紹介したことがある人相書きですね。
果たして、こんな人相書きが役に立つんだろうか…?

「ぺリーロード」を通って、

「長楽寺」に行きました。
安政元年(1854年)12月、ここ「長楽寺」において日本全権「筒井政憲」「川路聖謨」と、ロシア使節海軍中将「プチャーチン」との数回に及ぶ交渉の結果「日露和親条約」が締結されました。

境内にある「長楽寺宝物館」ですが…誰もいなかったよ。

これは「草画房」です。
大正時代は自転車屋だったそうです。

これは蔵でしょうか?

これは「旧澤村邸」です。
その脇の石段を上がって「下田公園(別名:城山公園)」に入りました。

これは「下岡蓮杖之碑」です。
「下岡蓮杖(1823-1914)」は、幕末の写真業創始者です。
「ハリス」の通訳「ヒュースケン」から写真原理を学び、横浜で写真師「ウンシン」から実技を習得しました。
長崎の「上野彦馬」とともに“日本の写真師の始祖”とされています。

園内をさらに進みます。

これは、昭和54年当時アメリカ大統領だった「ジミー・カーター」が来日した時に下田に来た記念碑です。

これは「開国記念碑」です。

「ペリー提督」と「ハリス領事」のレリーフ像に2人の言葉が刻まれています。

左側が「ハリス領事」で、

右側が「ペリー提督」です。

下田公園からの景色です。

ここが入口だったんですね。

「下田公園」を出ると「ペリー艦隊来航記念碑」があります。

これは「丸宮家」です。

これは「お吉」が晩年開いた「安直楼」です。

これは「松本旅館」です。

左は「角谷(船宿)跡」で、「勝海舟」や「板垣退助」も宿泊しました。
右は「櫛田家蔵」です。
それから「下田龍馬伝絵図」に載ってた「住吉楼跡」に行ったんだけど、何もありませんでした。
そこは「山内容堂」と「勝海舟」が謁見している間、「龍馬」が待っていたと伝えられてるんだけど、「龍馬」は船中で待っていたという説もあり、確証が無いんで案内板も無いそうです。

それから「マイマイ通り」に戻り、「宝福寺」近くの「海善寺」に行きました。

ここには、14代将軍「徳川家茂」も泊まったことがあるらしく、お手植えの松もあったそうです。

次は下田港方面に行きますが、キリがいいんで一旦〆ます。
続きは“Part.3”を見てくださーい。



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