2月3日(日)2/3
続きは「武侯祠」内の「三義殿」からでーす。
これは「三義殿」です。
左に『張飛』の「蛇矛」、右に『関羽』の「青龍偃月刀」がありました。
左から『張飛』、
中央に『劉備』、
右に『関羽』です。
『諸葛亮』と写真(右)は「黄夫人」かな?
「三国無双」では「月英」として登場していますが、「月英」の名は史書には無く、後世に創作されたもののようです。
「諸葛尚(孫)」と「諸葛瞻(息子)」です。
「武侯祠」内には「お土産屋」があったのに開いてなくて、この後「三顧堂」前の小屋でグッズをいくつか購入しました。
その時合計金額が「103元」だったんで「100元にして」と言ってもマケてくれず、「105元」払い、「2元」のおつりをもらう前に「ここの地図って無いの?」と聞いたら「パンフ」を出してくれました。
無料かと思ったら「これ込みで105元でいいわよ」と
この「商売上手」には思わず「苦笑い」ですよ…
「好了」(あんたにゃ負けたよ…って感じで)と言って小屋を出ました。
「武侯祠」裏の「銅鼓台」です。
今度は「三顧堂」の左側にある「諸葛草廬」に入ります。
「草堂」です。
ここで『諸葛亮』は『劉備』に「天下三分之計」を説きました。
「諸葛亮臥室」です。
3度目の訪問で『諸葛亮』が在宅してたんですが、『諸葛亮』は昼寝中でした。
『劉備』は『諸葛亮』が起きるまで待っていました。
ここは「隆中書院」です。
ここは「諸葛亮紀念館」です。
「躬耕隆中」…『諸葛亮』は18歳の時「隆中」に転居して来ました。
(生まれは現在の「山東省沂南(2007年7月22日「諸葛亮故里」ブログ参照してね)」です。
「孔明拝師」…「龐徳公」は「襄陽」でよく知られた名士でした。
親交があった「司馬微」を「水鏡」、『諸葛亮』を「臥龍」、そして「龐統」を「鳳雛」と名付けたといいます。
「龐徳公」の下に募った仲間達。
写真(右)は、その中の『諸葛亮』と「徐庶」です。
この「徐庶」については、この後「南漳」の『徐庶故里』に行くので、そこで詳しく書きたいと思います。
「静?堂」と、その前にある若き『諸葛亮』像です。
「草廬碑」と「抱膝亭」です。
10:30「石碑坊」に戻り、『古隆中』を出ました。
この『古隆中』はとても広く、全てを見ていませんが、主要な所は見て来ました。
やっぱ「南陽」じゃなく、この街から外れた「隆中」の方に『諸葛亮』が居て、「三顧の礼」の舞台になった…って感じが伝わりました。
また「隆中」(バス停)まで戻ります。
10:45「隆中」に着いて一服しながら「バス」を待っていると、目の前の公園?らしき所に「像」が見えたので行ってみることに。
でも、入口まで行くのが面倒だったんで「塀」を乗り越えて入りましたが。
若き日の『諸葛亮』。
「三顧の礼」。
『劉備』に「天下三分之計」を説く『諸葛亮』。
これらは他の「史跡アタッカーさん(仮)」達も紹介していませんでした。
いろいろ周囲を注意深く見てみるモノですね。
写真を撮ってる間に1台「バス」が行っちゃったけど…
10:55、またすぐ「バス」が来て乗ることが出来ました。
そして11:30「襄陽公園」で途中下車しました。
それは、この「襄陽公園」沿いにも「三顧の礼」像があるから。
次は「馬躍檀渓処」に行きたいのに、道に迷いました…
まぁ、そんな途中でも「襄陽城」など見ていましたけどね。
結局、12:20「輪タク」を拾い、12:30「馬躍檀渓遺址」に着きました。
ここは「劉表」の「お家騒動」に巻き込まれた『劉備』が「劉表」配下の「蔡瑁」に暗殺されそうになって「襄樊」から「新野」に逃げる途中、馬で「檀渓の激流」を飛び越えた所です。
『劉備』の馬は「的廬」といい、凶馬と言われていましたが、ここでは『劉備』の命を助けています。
次は「タクシー」に乗り、12:50「諸葛亮広場」へ行きました。
この『諸葛亮』像、高さが14mもあるらしいです
これにて「襄樊」の史跡ハントが終わり、次は「南漳」に行きます。
「諸葛亮広場」前から「路線バス」に乗り「襄樊站」に行こうと思ったのに、乗った「バス」が行くのは「襄陽站」でした…
「襄陽站」から仕方ないので「タクシー」を拾い、13:50近くの「襄城汽車客運站」に連れて行ってもらいました。
15:10「南漳」行きの「バス」は発車しました。
続きは次のレポートにて…
続きは「武侯祠」内の「三義殿」からでーす。
これは「三義殿」です。
左に『張飛』の「蛇矛」、右に『関羽』の「青龍偃月刀」がありました。
左から『張飛』、
中央に『劉備』、
右に『関羽』です。
『諸葛亮』と写真(右)は「黄夫人」かな?
「三国無双」では「月英」として登場していますが、「月英」の名は史書には無く、後世に創作されたもののようです。
「諸葛尚(孫)」と「諸葛瞻(息子)」です。
「武侯祠」内には「お土産屋」があったのに開いてなくて、この後「三顧堂」前の小屋でグッズをいくつか購入しました。
その時合計金額が「103元」だったんで「100元にして」と言ってもマケてくれず、「105元」払い、「2元」のおつりをもらう前に「ここの地図って無いの?」と聞いたら「パンフ」を出してくれました。
無料かと思ったら「これ込みで105元でいいわよ」と
この「商売上手」には思わず「苦笑い」ですよ…
「好了」(あんたにゃ負けたよ…って感じで)と言って小屋を出ました。
「武侯祠」裏の「銅鼓台」です。
今度は「三顧堂」の左側にある「諸葛草廬」に入ります。
「草堂」です。
ここで『諸葛亮』は『劉備』に「天下三分之計」を説きました。
「諸葛亮臥室」です。
3度目の訪問で『諸葛亮』が在宅してたんですが、『諸葛亮』は昼寝中でした。
『劉備』は『諸葛亮』が起きるまで待っていました。
ここは「隆中書院」です。
ここは「諸葛亮紀念館」です。
「躬耕隆中」…『諸葛亮』は18歳の時「隆中」に転居して来ました。
(生まれは現在の「山東省沂南(2007年7月22日「諸葛亮故里」ブログ参照してね)」です。
「孔明拝師」…「龐徳公」は「襄陽」でよく知られた名士でした。
親交があった「司馬微」を「水鏡」、『諸葛亮』を「臥龍」、そして「龐統」を「鳳雛」と名付けたといいます。
「龐徳公」の下に募った仲間達。
写真(右)は、その中の『諸葛亮』と「徐庶」です。
この「徐庶」については、この後「南漳」の『徐庶故里』に行くので、そこで詳しく書きたいと思います。
「静?堂」と、その前にある若き『諸葛亮』像です。
「草廬碑」と「抱膝亭」です。
10:30「石碑坊」に戻り、『古隆中』を出ました。
この『古隆中』はとても広く、全てを見ていませんが、主要な所は見て来ました。
やっぱ「南陽」じゃなく、この街から外れた「隆中」の方に『諸葛亮』が居て、「三顧の礼」の舞台になった…って感じが伝わりました。
また「隆中」(バス停)まで戻ります。
10:45「隆中」に着いて一服しながら「バス」を待っていると、目の前の公園?らしき所に「像」が見えたので行ってみることに。
でも、入口まで行くのが面倒だったんで「塀」を乗り越えて入りましたが。
若き日の『諸葛亮』。
「三顧の礼」。
『劉備』に「天下三分之計」を説く『諸葛亮』。
これらは他の「史跡アタッカーさん(仮)」達も紹介していませんでした。
いろいろ周囲を注意深く見てみるモノですね。
写真を撮ってる間に1台「バス」が行っちゃったけど…
10:55、またすぐ「バス」が来て乗ることが出来ました。
そして11:30「襄陽公園」で途中下車しました。
それは、この「襄陽公園」沿いにも「三顧の礼」像があるから。
次は「馬躍檀渓処」に行きたいのに、道に迷いました…
まぁ、そんな途中でも「襄陽城」など見ていましたけどね。
結局、12:20「輪タク」を拾い、12:30「馬躍檀渓遺址」に着きました。
ここは「劉表」の「お家騒動」に巻き込まれた『劉備』が「劉表」配下の「蔡瑁」に暗殺されそうになって「襄樊」から「新野」に逃げる途中、馬で「檀渓の激流」を飛び越えた所です。
『劉備』の馬は「的廬」といい、凶馬と言われていましたが、ここでは『劉備』の命を助けています。
次は「タクシー」に乗り、12:50「諸葛亮広場」へ行きました。
この『諸葛亮』像、高さが14mもあるらしいです
これにて「襄樊」の史跡ハントが終わり、次は「南漳」に行きます。
「諸葛亮広場」前から「路線バス」に乗り「襄樊站」に行こうと思ったのに、乗った「バス」が行くのは「襄陽站」でした…
「襄陽站」から仕方ないので「タクシー」を拾い、13:50近くの「襄城汽車客運站」に連れて行ってもらいました。
15:10「南漳」行きの「バス」は発車しました。
続きは次のレポートにて…
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