舞鶴港は、私が昭和19年の晩秋釜山からの帰国の地で、当時7歳ぐらいで桟橋の桟敷板の隙間から見える海の怖さぐらいしか記憶にない。
昨日の舞鶴港は、大型観光クルーズ船の寄港と自衛艦の基地して有名になり活気があったが、かっては満州からの引き揚げ港だった。
昭和16年だと思うが、私達親子3人(母と兄)は軍医の父に遅れて
満州はハルピン、チチハルの奥地に約3年いたと思うが、19年になって父は南方方面に転属となり、軍属だけにはソ連の参戦の情報も有ってその年の暮れに急遽、産まれたての弟を連れて4人帰国することになるが、それは大変で次男の俺は必死にしがみついて終戦まえに釜山から舞鶴に帰国出来た。当時7才位だと想うが舞鶴港の板敷桟橋の隙間が怖かった思いがある。昭和20年8月15日以降であれば次男の俺は馬族ぐらいになってクタバッテいたかも。
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引き揚げ記念館とソ連抑留者の白樺日記
昨日の舞鶴港は、大型観光クルーズ船の寄港と自衛艦の基地して有名になり活気があったが、かっては満州からの引き揚げ港だった。
昭和16年だと思うが、私達親子3人(母と兄)は軍医の父に遅れて
満州はハルピン、チチハルの奥地に約3年いたと思うが、19年になって父は南方方面に転属となり、軍属だけにはソ連の参戦の情報も有ってその年の暮れに急遽、産まれたての弟を連れて4人帰国することになるが、それは大変で次男の俺は必死にしがみついて終戦まえに釜山から舞鶴に帰国出来た。当時7才位だと想うが舞鶴港の板敷桟橋の隙間が怖かった思いがある。昭和20年8月15日以降であれば次男の俺は馬族ぐらいになってクタバッテいたかも。
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引き揚げ記念館とソ連抑留者の白樺日記
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