「絶対外しちゃだめよ。いーい?」
「分かってるよ」
「ほんと? 訓練のときもよ」
「訓練もか? それは、ちょっと……」
「だめったら。流行ってるんだから、予防がとにかく大事なの」
何の話かというと、インフルエンザの話である。
猛威を振るうウイルスに、柴崎もいつになく神経質になっている。
アルコール消毒、こまめにうがい、手洗い。外ではマスクを着けておくようくどいほど手塚に言い含める。
訓練時、マスクはきついよな、と激しい動きを思い出して手塚は内心首を傾げる。
でも妻の気持も分かるので、できるだけ頑張ってみるかと鏡の中マスクのゴムをかけ直す。
先に職場に出かける手塚を玄関まで柴崎は見送る。毎朝の習慣だった。
「絶対外さないでね。ご飯のときだけよ、外していいのは」
「分かった分かった」
「ぜんぜん分かってない。予防が一番効果があるんだからね」
手塚にあまり緊張感が見えないのが気に召さないらしい。声に棘が混じる。
靴ベラを片手に、革靴に足を滑らせる手塚の背を追いかけた。
「もう、罹ってからじゃ遅いんだから」
「予防接種もしたよ」
「したけど、完全に防げるわけじゃないわ」
「心配性だな、うちの奥さんは。――じゃあ、行ってくる」
かかとを鳴らして柴崎に向き直る。
段差のせいで、目の高さが一緒だった。
おもむろに手塚がひょいとキスをした。マスクを外して。
不意をつかれて柴崎が棒立ちになる。
「キスのときも、外していいんだろ?」
「――まあ、例外としてOKね」
少し赤くなって、柴崎は上目で手塚を窺った。
「相手はあたしに限定されるけど、ね」
「当たり前だろ、馬鹿」
手塚はもう一度、今度は長めに柴崎に口づけてからマスクをきっちりかけた。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
心配は愛情のあらわれ。
自分のことになると途端に心配性になる妻を心底可愛いと思う。
息苦しいけど、訓練のときもかけたままにするしかないか。
少し速い足どりで朝の中を行く手塚。マスクのせいで白い息は吐き出されなかった。
(fin.)
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裏も表もたまらんな、が目標です(あけすけなくて、すいません・汗)