【5】へ
「それって、……ストーカーか」
その言葉自体、口に出すのもおぞましい。
いやな記憶をまた呼び起こさせられる。しかし柴崎は顔色一つ変えず、風をはらんで広がる黒髪を押さえて言った。
「まあ、そんなとこね。内部告発っていうか、あたしにその情報が入って、すぐにクビになったって聞いたけど。だから、外でもあまり隙は見せないことにしてんのよ」
手塚は、「そういうことがあったんなら、お前、一言相談しろよな」と不機嫌さを声ににじませた。
「昔のことよ」
柴崎が肩をすくめた。
「あんたと付き合う前の話」
「……」
「……そんなに怒らなくたって、いいじゃない。今なら言うわよ。あんたに、何もかも」
「約束しろよ。もう絶対に一人で抱え込まないって誓え」
真顔で手塚は迫った。その剣幕に、柴崎は呑まれる。
「なんだか、おっかないの」
「はぐらかすな。ちゃんと言えよ。そうじゃなきゃ、俺、なんだか馬鹿みたいだろ。こんなふうにお前の隣にいるのに、肝心なこと知らないなんてさ」
なんだか、信頼されてないみたいだ。
その呟きは潮風がさらった。
柴崎にちゃんと届いただろうか。そう心配になったとき。
「……うん」
すると、そこで、不意に右手を握られた。
きゅっと強く。
「……信頼してないわけじゃ、ないから」
手を握ったまま、柴崎は上目で手塚をそっと窺った。
「――分かってる」
そして、空いているほうのでペットボトルを傾け、柴崎が口をつけたところから手塚は中身を飲んだ。
すでに温くなっていたけど、構わなかった。
遠く、沖合いに浮かぶ灰色の雲が、ぐんぐん重さを増していくのが見えた。
今にも一雨来そうな雲行きだった。
「もうひと泳ぎしたら、帰ろうか」
「そうだな」
スイカを食べて、毬江が作ってきたお弁当をみんなでつついて。
誰からともなくそう言い出して、なんとも名残惜しいけれども引き時かなという雰囲気になった。
気がつくと、あんなに人でごった返していた海辺もいつの間にか人口密度が減って、黒い頭から覗く海面の青さが面積を広げている。
帰らなくてはならないとなると、帰りたくなくなるのが人情というものだ。
彼らは公園でいつまでも遊びたがる幼い子供のように、ずっとそこに留まって潮風を感じていたかった。
一緒にいられる時間がなによりも楽しくて。
「毬江ちゃん、何か冷たいもの、食べたくない?」
「食べたい。汗かいちゃった」
「ジュース? それともアイス?」
「アイスクリームがいい。ソフトでも」
「じゃあ買ってきてあげるよ。他にほしい人、いる?」
「小牧一正、買出しならあたしも行きます」
「大丈夫。トイレも兼ねてるから気にしないで。笠原さんは最後のひと泳ぎしておいでよ。毬江ちゃんも先にみんなと遊んでて。堂上、彼女、頼む」
「ああ。わかった」
「あたしも海に入ろうかな……」
ぽろっとそう零したのは柴崎。
えっという顔で彼女を見たのは、手塚だけではなかった。
「なによ。海に来て海に入っちゃまずいですか。あたし」
わずかに口を尖らせて周りを見回す。
手塚は複雑な顔をして見せた。
「そりゃまずくはないけど。お前、金槌だろ。いいのか」
「まさかあんた、あたしを放ったらかしにしようなんて思ってないでしょうね。ここまできて」
「そんなことはしないけど」
「気分いいし。最後に足を浸すぐらいしたっていいでしょ」
「そうだよ。入ろうよ、柴崎。最後はみんなでさ!」
「行くか。柴崎はしっかり準備運動しろよ。足、攣るぞ」
「はあい」
「……お前、堂上一正の言うことは素直に聞くのな」
「なによ。妬いてんの」
「……」
「ま、ま。行こうよとりあえず、柴崎もせっかくその気になったんだからさ。ね?
毬江ちゃんも行こ」
「はい」
連れ立って海に向かっていく5人を見送って、小牧が「気をつけてな」と手を目にかざす。
生ぬるい風が、海から吹きつけてきた。湿気を帯びた、ねっとりと不快な風だった。
嵐が来るな。そう目を細めた小牧を行きかけた毬江が振り返った。
目が合い、小牧は持ち上げていた腕を、そのまま振った。
毬江もにこっと笑みを作ってそれに返した。
――毬江が事故に遭うのは、それからまもなくのことだった。
小牧が外してる間に、アクシデントは起こった。
荒れ始め、急に高くなった波にさらわれたボディボード。それが、結構沖のほうまで来ていた毬江を直撃した。
毬江は意識を失い、波間に沈んだ。
遊んでいても、油断していたわけではない。辺りに目は配っていたはずだった。
なのに、事故は起こった。
どうしたって、手塚は金槌の柴崎に付きっ切りになるし、堂上も郁のはしゃぎように目がいくのは否めなかった。
それにしても、きちんと遊泳区間で泳いでいたのに。
なのに。
乗り手から離れたボディボードが、高波に流されて突然打ち寄せてきた。
ちょうどその直線上に毬江がいたのだ。
かばう暇もなかった。あっと声を上げたかけたときには、もう大きな板が毬江を打ちのめしていた。ガツっと鈍い音がした。
「!」
そのときの光景は、まるでスロー画像のように、そこにいた彼らの目に映った。
堂上と手塚、郁がとっさに反応した。身体が反射で動き、水を掻いだ。
我先に、海に呑まれた毬江のもとに泳ぐ。
柴崎は蒼白になった。肩までの海面。喉まで水位が一気にせりあがってくる。
「毬江ちゃんっ!」
その口から、金切り声が上がった。
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