【6】へ
戻ってきた小牧はすぐに異変に気づいた。
海辺は騒然となっていた。
胸騒ぎがして、人だかりを掻き分け、輪の中に入っていった小牧の目に映ったのは、砂の上に横たえられた毬江だった。
郁が心臓マッサージを、堂上が人工呼吸を施している。
必死なその様子から、ひと目で逼迫した状態だと伝わった。
持っていたソフトクリームがぼたりと手から落ちる。小牧はものも言わず、前に踏み出し、砂に膝をついた。
「小牧一正!」
監視員たちとともに、群がる野次馬を抑えていた手塚が叫ぶ。
毬江に屈み込んでいた堂上が弾かれたように顔を上げた。
「小牧」
「容態は」
恐ろしく低い声で、短く訊いた。
その手は、毬江の濡れそぼった髪に当てられている。ちいさな頭に恐る恐る触れた。
郁が蘇生法を続けながら、必死で言葉をつむぐ。
「遊泳しているとき、乗り手から離れたボディボードが波にさらわれて直撃しました。頭のあたりを打ち付けたらしくて、意識を失って。
すぐに引き上げたんですけど。……たぶん、たくさん水を呑んでいます」
小牧は不自然なほど無表情でそれを聞いた。
ただ目線は毬江から離そうとはしなかった。
まばたきするのも忘れたように、食い入るように強い目で彼女を見つめている。
毬江は岸に打ち上げられた人形か何かのようだった。ぐったりとして意識がない。
「蘇生法を始めて、何分?」
「3分です。救急車も呼びました。今来るそうです」
柴崎が答えた。
蒼白な顔色のまま、でも取り乱すことなく状況を見守っている。
小牧はあごを引いた。
「わかった。堂上は俺と代わって。笠原さんは、続けられる?」
「はいっ」
「小牧、――すまん」
場所を譲った堂上を、小牧が遮る。
「今その台詞言わないでくれ。――とにかく代わって」
そう言われ、堂上はどこかを突かれたように目をすがめた。
郁がちらと堂上に視線を向けるが、何も言わずにマッサージを続けた。全身から玉のような汗が吹き出ている。
手塚は、毬江が相手では郁と代わりたくても代わってやれない。息を詰めて状況を見守るしかない。
「毬江ちゃん。しっかり」
反応のない恋人にそう呼びかけ、動揺はしているだろうけれども、慎重な手つきで小牧は毬江に人工呼吸を施し始めた。
隊の訓練で蘇生法は完全に叩き込まれている。とはいうものの、実際に使うのは堂上も小牧も今日が初めてだったが。
「毬江ちゃん。聞いて。戻ってきて」
俺だよ。
何度も何度も、息継ぎの合間に呼びかけながら、小牧は毬江の口に空気を送り続けた。
そこへ、一粒、重たげな雨滴が。
小牧の頬に打ち付ける。
天候が崩れた。持ちこたえられなかったと見え、ぱらぱらと次第に雨脚が強まる。
群がっていた野次馬が、空を仰ぎながら散り始める。あわただしくパラソルとシートを畳み、撤収作業に入る人々の、変わり身の早さが恨めしい。
小牧は雨など目に入らないかのように、一心に人工呼吸を行う。跳ね返った雨が泥を含んで毬江の頬を汚す。
すぐに海辺は、滝のようにどしゃぶりになった。雨脚が強くて、目を開けていられない。
柴崎は、自分でも気づかぬうちに手塚の隣に寄り、その手を掴んだ。
手塚は思いの他熱い手のひらで、彼女の手を握り返した。
痛いほど。
――大丈夫だ。
言葉にならない声で、そう言われたのが分かった。
柴崎は心の中で頷く。
そうね。大丈夫よね。
絶対。
小牧一正がついていて、毬江ちゃんに何かあるはずがない。
手塚の手を握りながら、噛み締めるように柴崎は自分に言い聞かせた。
緊迫する海辺に遠くから、救急車のサイレンが響いてきた。その音まで、雨に白く煙った。
「よかったあ! ほんっっとによかったあ!」
顔をくしゃくしゃにして笑い、涙を流しながら郁が毬江の枕元に飛びついた。
体調を慮って、本人には触れない。ベッドのシーツにひしとしがみつく。
「すいません、笠原さん。ご心配おかけして」
顔色はよくなかったが、それでも笑みを浮かべて毬江は言った。その頭には真っ白な包帯がきっちりと巻かれている。ピンク色の患者服を着て、いつもの補聴器も耳から覗いていた。
「あたしのなんか、小牧一正のに比べたら、心配のうちになんか入らないよ。
それより、毬江ちゃんが無事でほんとによかった。一時はどうなることかと心臓が止まりそうだった」
ぐずんと洟をすする。
小牧はベッドサイドに寄り添って、二人のやり取りを見つめていた。
「笠原さんと、堂上のおかげだよ。蘇生法を早くからやってて、ずっと続けたのが功を奏したんだって、医者も言ってたもの」
名前が挙がって、郁の後ろに控えていた堂上が顔を上げた。
さっきからものも言わず、押し黙っていたのだ。
堂上は郁の隣まで進んで、毬江を覗き込んだ。
「毬江ちゃん、本当にすまなかった。事故は俺の責任だ。申し訳ない」
堂上は言って、深く腰を折り、毬絵に頭を下げた。
「堂上さん」
毬江が目を瞠る。郁はそんな夫の隣で夫と同じ角度に腰を折った。一緒に頭を下げる。
「笠原さんまで、そんな、やめてください。二人のせいじゃない。あたしが不注意だっただけなのに」
毬江は困ったように小牧を見上げた。
小牧は頭を下げたまま、顔を上げようとしない堂上夫妻に言った。
「そうだよ、君たちのせいじゃない。事故だったんだから」
「……いや、俺はお前に毬江ちゃんのことを頼まれていたのに、ボードが当たるまで遊泳区間に乗り手が侵入していることにも気がつかなかったんだ。毬江ちゃんは今日は補聴器を外していたし、俺がもっと回りに神経を向けていなければならなかった。お前がいつもそうしているみたいに。だから、俺のせいだ」
ひたすらに頭を下げ続ける堂上に、ため息をついて小牧が言った。
「そこをつつくんだったら、俺が中座してトイレに行ったことも問題になってくるね。俺が戻るまで毬江ちゃんを海に入れないで、待たせておくべきだったってね。判断ミスだ」
「それは別の話だ」
「同じだよ。――堂上のせいじゃない。
だから頭を上げてくれ。笠原さんも」
「そうです、お二人がいてくださったから、あたし、溺れても死なずに済んだんです。感謝するのはこっちです。お二人に謝られるなんて、困ってしまいます」
「だってさ」
「でも」
「湿っぽくなるから、この話はここで終わりにしよう。ただでさえひどい雨なんだから」
小牧が切り上げた。
堂上はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、病室で押し問答になるのもと思い、口をつぐんだ。
病室の窓を雨がひっきりなしに打っていた。
雨音に埋め尽くされ、会話は自然と途切れた。沈黙が覆った。
「ところで、手塚と柴崎さんは?」
話題を変えるように小牧が訊く。
「今、警察に事情を説明したり、入院の手続きを取ったり、例の乗り手のひとと話をしてるはずです。連絡先とか話せる範囲で伝えて。当事者じゃないんで、後で直接毬江ちゃんのところに誰かが話を詳しく聞きにくるとは思うんですけど」
郁が伝えた。柴崎は、お泊り用の一式の準備もしてくれてると思います、とも。
救急車が到着する寸前に毬江は自力呼吸を取り戻し、酸素マスクをつけた状態で最寄の市の総合病院に運び込まれた。もともと心肺機能は停止していなかったので、重篤な状態にはならず、比較的早い回復を見せた。
ただ、頭を強く打っているため検査入院をかねて今宵はこの病院に泊まっていくよう担当医に言われていた。
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