東名阪道の三重県の山の中は小雪が舞っていましたが、奈良の町は風もなく平日(3日は節分会で、混雑が予想
されますが)で人も少ないので、“きたまち界隈”を歩いてみました。
まずは奈良女子大前の観光案内所へ。
元々は交番だったそうですが見所と道順を教えてもらってさあ出発。
正門から見える記念館が素敵で構内に入れてもらいました。(構内に入れないと思っていたけど案内所で大丈夫
ですよ~と言われ、もちろん守衛さんにお断りしてですが)
工事中なので裏に廻って見たら
木立の中の記念館、とっても素敵ですね。
あずまやまであり、とても大学構内とは思えません。
同窓会会館だそうです。
鹿の糞らしきもの、と思ったらやっぱりいました。慣れたもので近づいてもびくともしません。
いつも車ですぐそばの道を通るのですが、鉄筋の校舎が見えるだけなので、反対側や中がこんなに素敵だとは
思いませんでした。
法連造りの町並みを抜けていくと、
聖武天皇陵とその隣には光明皇后陵 とても街の中とは思えません。
多門町の昔ながらの塀と奈良時代の人が出てきそうなお屋敷
若草中学=多門城跡を抜けると
奈良少年刑務所 なんとも絵になる建物ですね
散策コースとしては次は般若寺ですが、以前に訪れているのでカット。
大通りを戻っていくと転害門がありました
1300年前のままの柱だとか、ボランティアの方が説明してくれました。
松永某と織田信長の戦だとか、知らない合戦の名前が出てきたので調べてみようと思います。(地元の方にとっては
当たり前のことなんでしょうけど・・・)
この奥には正倉院がありますが時間ギレでまたの機会に・・・
1時間半ほどのまち歩きでしたが、全く疲れませんでした。
後日追記
松本清張・樋口清之著 『奈良の旅』の中に松永久秀の名前を見つけました。
戦国時代末期に主君三好義興を殺し、ついで将軍足利義輝を殺して多門山城を築いた。ここから東大寺に拠った三好政康や
岩成友通と戦って勝った。大仏の首が二度目に焼け落ちたのはこの時であった。しかし翌年には織田信長と戦って敗れ、城は
壊された。この城の天守閣は鉄砲に備える城の物見台として日本の城の基準になっていた。
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