万田坑を後にして向かった先は、同じく世界遺産の三池港。
先ず最初は、
三池港閘門である。
干満の差が大きい有明海に面する三池港。
大型船を引き入れるためには、閘門は必須である。
その閘門から、今、2艘のタグボートが出て行った。
貨物船をロープで結び、外港へと曳いていくタグボート。
その様子はこちら(1分34秒)↓
移動
旧長崎税関三池支署。
ここにもボランティアガイドがいる。
「あれが第1岸壁です。明治41年に作られました。」
「あれがですか。立派なもんですね。」
「そうでしょ。この前の地震でちゃ、ビクともせんやったとですよ。」
我が事のように胸を張るガイド。
その口からは、三池港愛がほとばしる。
三池港の歴史、付近に多い発電所にまつわる話、炭鉱専用軌道敷の事。
微塵もよどみがない。
「この軌道敷は、万田坑や宮原抗にも繋がってます。ほら、こんなのも。」
線路のポイント切り替えだ。
「おお、すごかですね。時にお尋ねしますが、大金剛丸ちゃあ・・・」
「大金剛丸が見たい?そんなら、あそこの高台から見てんですか。え、変電所跡と三池港倶楽部、鉄道軌道敷も?なら、行く順番はですね・・・」
立て板に水とは、このことである。
ガイドに教えて貰った高台から。
黄色のクレーン船が大金剛丸である。
明治38年に中古で購入、三池港の港湾作業に従事。
以来、いまだに働き続る、超高齢の働く船だ。
クレーンの動力は今でも蒸気、その燃料は石炭である。
船を動かすエンジンはなく、自分では移動出来ない。
ただし、曳航は出来るので、
「動けるものって、世界遺産から除外さるっとですよ(泣)」(ガイド)
高台から見る閘門。
三井港倶楽部
明治41年開業した三井の社交倶楽部。
1階はレストランだが、2階は一般に開放されている。
昭和天皇が三池炭鉱巡幸の折に宿泊された部屋。
同じ敷地内には三川抗跡がある。
炭鉱電車の展示
練込場
人車点検場
第2斜坑
練込場で準備を終えた抗夫は、ここから坑道へと降りて行く。
天井が低い。
気をつけないと、頭をゴツンとやりそうだ。
今は埋められているが、正面が第2斜坑入口である。
ここから、遙か彼方の海の底へと伸びていく。
巻上機室
万田坑のそれと比べ、遙かに巨大である。
三川抗炭塵爆発慰霊塔
死者458人、重傷者675人、一酸化中毒患者839人
昭和38年に発生した未曾有の労働災害。
当時幼かった私だが、テレビニュースから伝わってくる緊迫感は、おぼろげながらも脳裏に残っている。
旧三井炭鉱三川電鉄変電所跡
現在は、民間会社の社屋となっている。
旧三池炭鉱専用鉄道敷
今はもう、石炭を積む車両は無く、軌道敷には、送電塔が立ち並ぶだけである。